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2015年02月23日 (14:42)

故陳舜臣氏の『桃源郷』読了:宗教的叙事詩的小説:ユートピア小説ではない

リンク等は以下を見られたい。
http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11993550143.html

故陳舜臣氏の『桃源郷』読了:宗教的叙事詩的小説:ユートピア小説ではない

テーマ:こころ教共同網:「まことの教え」共同体

印象ではあっという間、文庫本で上下で750頁弱の本書を読了してしまった。
 これまで読んだことのない、独創的な小説である。
先に、ユートピア小説と呼んだが間違いである。ユートピアは何処にもない理想郷を意味するが、この小説の桃源郷はフィクション上であれ、存在するからである。詳細は言わない。
 また、文学というより歴史を読んでいるようだとも言ったが、これも訂正する。
 登場人物の内面が生きている。
 宗教を扱った文学は多いが、マニ教とそのマニ教の自己超克をテーマにした作品は空前ではないだろうか。
 とまれ、マニの名を捨てた「まことの教え」、「まことの信仰」が中心的主題であるが、内容的に魅かれる。
 思うに、マニ教本来の意義から言って、名を捨てることは、マニ教の完成成就のように考えられる。
 つまり、マニ教とは、いわば、純粋宗教で、何々が神、仏ということはないのである。つまり、本質は、名なき宗教なのである。
 でも、哲学的に、名をなくすことの意味は何だろうか。
 たとえば、こころに感ずるなんらかの形而上学的なものを、
国之常立神 (くにのとこたちのかみ)
と呼ぶのと、なにも名をもたない存在とするのとでは、どう違うのか。
 当然、名をつければ、その存在は限定される。特定される。哲学用語があったが忘れた。(追記:言葉は現実、物質界を指すことが大半である。だから、言葉の分節化は、いわば、物質的実体化である。だから、宗教の次元における、言語化、特に、固有名化は、物質化なのである。これは、当然、排他的になるのである。形而上学的次元に形而下的次元を持ち込んで、前者の秩序を破壊すると言えよう。)
 有神化と一応言えようが、名をもたない場合は、無神ではなく、非神である。非神非仏的前宗教である。そう、プレ宗教である。
 そう、どうやら、このプレ宗教という視点が大事ではないだろうか。
 陳舜臣氏は、思うに、既成の宗教を超えて、いわば、先祖返り的に、プレ宗教を小説芸術化したのではないだろうか。
 しかし、それは、ポスト宗教ないし超宗教(トランス宗教)ということになる。プレ宗教を今日的に復活させたポスト宗教、トランス宗教がマニの名を捨てた「まことの教え」、「まことの信仰」ということではないだろうか。
 これは、実に水瓶座エポックに相応しい精神・霊のあり方ではないだろうか。
 そのように考えると、本作品はたいへんな傑作であることがわかる。
 とまれ、マニ教⇒マニの名を捨てた「まことの教え」
である。しかし、マニ教=「まことの教え」とも言えよう。
あるいは、真マニ教とも言えよう。ママニ教である。

追記:単純に固有名をもつ宗教と固有名を捨てた「宗教」を比べてみよう。
 X神と言えば、非X神があり、対立が生じるのである。
実は、啓典の宗教は一神教で本来、同じ神を崇拝するのであるが、歴史的に対立していることが多い。(オスマン・トルコの場合、諸宗教は共存していたのであるが。)
 一方ではヤハウェであり、他方では、アッラーである。
 本来、同じ神なのである。
つまり、ヤハウェと非ヤハウェが存在することになり、ヤハウェは非ヤハウェを排除しよう。これは、アッラーの場合も同じである。
 つまり、これは、宗教というより、言葉の概念の力学に由るのではないだろうか。
 例えば、目の前に、デスクがあるとする。そうすると、デスクと非デスクの対立が生じるのである。これは、言語概念力学である。たとえば、その存在をチェアと呼べば、否定されるだろう。
 これは二元論ないし二項対立である。
 これは、知性(悟性)の精神力学である。
(それに対して、陰陽対極・両極性は、知性の力学ではなく、精神・霊の力学ないし、こころ、理性の力学である。つまり、デスク=非デスクという即非の力学【鈴木大拙】、絶対矛盾的自己同一【西田幾多郎】という力学がはたらくのである。)
 だから、固有名を宗教においてもつことは、一種の知性化であり、それは、宗教本来の精神性から逸脱することということになろう。
 だから、『桃源郷』で、主要人物たちが、隠れマニを止めて、マニの名を捨てて「まことの教え」に到達したのは、宗教的見地から、本来・本質的であると考えられる。
 だから、宗教戦争とは、知性戦争なのである。特に、父権宗教は自我が強固なので、宗教戦争となるのである。
 そう、宗教から固有名を捨てて、こころ教になるのは、今日的である。それは、戦争宗教から平和宗教への進化である。

追記2:ここで、千争邪について考えると、それは、明らかに、二項対立主義である。自分は正しく、他者は間違っている。だから、自分たちの生存のために、他者から略奪したり、他者を湮滅させることは正しいということになろう。
 父権主義の極大化である。

追記3:今日の日本が息苦しいのは、上述したような、知性=悟性的自我が主導化しているからである。特に、若い世代に見受けられる。
 完全に二項対立であり、容赦がないのである。これは、知性(悟性)的自我(父権的自我)はあるが、精神・こころ的自我(母権的自我)が欠落しているということと言えよう。
 そう、唯物化である。氣・精神-霊・こころの次元・領域・世界が欠落しているのである。これは、悪魔化である。


陳舜臣 長い長い旅の話: SilverFish Files
sfish.cocolog-nifty.com/blog/2008/03/post_1ce1.html


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桃源郷 - Wikipedia
ja.wikipedia.org/wiki/桃源郷


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1.
桃源郷 の画像検索結果

2.
桃源郷ってどういう意味ですか? - 国語 | 教えて!goo
oshiete.goo.ne.jp/qa/1551843.html


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2005年8月1日 ... 桃源郷って、どういう意味ですか? 楽園、、、という意味のような気がするのですが、も
うすくし詳しく、語源も(たしか中国の話だったような気がするんですが)教えてください。
手持ちの辞書や検索で意外と見つからなかったので、桃源郷の意味、 .
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