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2015年04月18日 (15:14)

視覚とこころ:肚を作って、自我と肚のバランスを形成して、こころ・視覚・光を新生させ、大自己となる

画像は以下を見られたい。
http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-12015786922.html

視覚とこころ:肚を作って、自我と肚のバランスを形成して、こころ・視覚・光を新生させ、大自己となる

テーマ:GP陰陽哲理学:ガウス平面と陰陽論の統合

本テーマについて何回か既述したが、あらためて検討したい。
 視覚と自我が結びついていると見る。問題は、視覚とこころの関りである。
 陰陽哲理学(氣哲理学)から見ると、視覚は凸i陽と結びついていることになる。
 以前、海舌氏が、人間認識図で、凸iを光ととっていたが、それは正しいのかもしれない。


 
  海舌氏による人間認識図

氣哲理学では、光は+1においてあるのであり、凸iを光とすると齟齬になる。この点をどう整理するのかである。
 ここで作業仮説、思考実験であるが、陽凸iを光ではなく、原光としたらどうだろうか。そうならば、陰凹iは闇ではなく、原闇である。
 そして、原光と原闇が共鳴して、光が生まれると見るのである。(勿論、原光が主導だと重力が生まれるのであるが。)
 では、原光(凸i陽)と視覚ないし自我はどう関係するのだろうか。
 氣哲理学から言えば、当然、直結していることになるが、そのメカニズムはいかに?
 まず、視覚、光を感覚するとはどういうことなのか。
 いったい視覚器官のメカニズムは何か。
 直観で言えば、光の根源は原点MP(Media Point)、中心点にある。だから、そこに視覚器官があるのではないだろうか。
 つまり、視覚は陽凸iないし原光にあるのではなく、原点MPに存するということになる。
 ならば、それは、こころと一致することになるのである。
視覚器官=こころということになる。
 そうすると、私の上記したことやこれまでの考えが破綻するのである。私は視覚は自我と直結すると見てきたからである。
 この新たな視点から考えてみたい。
 では、なぜ、視覚と自我が結びつくと考えたのだろうか。それは経験的な判断からである。
 確かに、視覚と頭脳は結びつくのである。頭脳は自我と関係するのである。だから、結びつけたのである。
 とまれ、自我は凸i、陽、原光の主導的能力と言えよう。
 では、自我とこころの関係は、自我がこころを否定、抑圧、排除、隠蔽するというものである。
 つまり、自我形式とは自己同一性主義(簡単に同一性)なのであり、他者性をもつこころを同一性で支配するのである。つまり、自我は、こころの領域をいわば隷属させるのである。
 しかし、基本的には原初的こころが存在するのである。
 そう、こころに視覚があるならば、当然、自我はこころ・視覚に通じていないといけない。
 少し見方を変えると、陽と陰の調和共振でこころ=視覚が生まれるが、そのとき陽が強化された場合、つまり、自我が形成されるとき、こころ=視覚はその影響を受けて、いわば、不透明化するのではないだろうか。
 つまり、こころ=視覚=光は、陽化、原光化するということではないだろうか。思うに、この陽化ないし原光化したこころ=視覚=光とは、物質的光ではないだろうか。氣的背景を喪失した光ではないだろうか。
 それは当然、自我の物質主義に相応する光と言えよう。
 私が自我と視覚が結びつくと見たのは、この点を意味しているのだろう。
 ならば、こころ=本来の視覚(本視覚)=本来の光(本光)を取り戻すには、どうしたらいいのだろうか。
 近代は自我主導的であるので、それは難しいのである。
 自我を失わずに、こころ・本視覚・本光を新生させるにはどうしたらいいのか。
 簡単に言えば、やはり、肚を作ることである。
 陽凸i、原光の主導的であるのに対して、陰凹i、原闇を強化しバランス・均衡をとることが大事である。
 つまり、主導的な陽凸i=原光に対して、能動的に陰凹i=原闇(肚)を形成する必要があるということになるのである。
 それによって、自我と均衡する肚が形成されるのであり、新しい陰陽調和が形成されると考えられる。
 そう、これは、原初のこころ=視覚=光ではなく、生まれ変わったこころ=視覚=光である。
 正に、開眼である。
 この新しい自己はいわば、大自己である。それまでは、自我的自己に過ぎなかったが、自我を包摂した大なる自己なのである。ここには、他者との共生感(仁倫)があるのである。
 今はここで留めたい。

追記:私見では、シュタイナーの説く悪魔アーリマンは陽凸i、原光であり、悪魔ルシファーは陰凹i、原闇であり、キリストは両者の均衡調和である。それは、こころである。

追記2:こころ=視覚=光と上述したが、気哲理学の「座標」とは齟齬となる。
 後者では光は+1である。しかるにで、上記では、原点MPが光となる。
 この矛盾をどう解決するのか。
 原点MPにおいて、陰陽共振調和が為されると光が発生する。だから、原点MPから+1の領域が光と言うことができよう。
つまり、つまり、MP⇒+1の総体が光であり、+1はあえて言えば、天である。もっとも、天は光の総体の終点と見られる。
 今はここで留める。
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