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2015年07月18日 (09:12)

弁証法と陰陽極立原理

検討問題:弁証法と陰陽極立原理

テーマ:GP陰陽哲理学(ガウス平面陰陽哲理学)

私はこれまで、弁証法、とりわけヘーゲル弁証法を批判的に捉えてきたが、つい最近、弁証法で説明が可能なものもあるとわかった(後記:以下でわかるように、これは間違いであった)。
 これまでの私の観方と齟齬を来すので、検討したい。
 今は詳論できないので、簡単に指摘するに留める。
たとえば、Aさんが、「私は昼が好きである」と言う。それに対して、Bさんが、「私は夜が好きである」と言う。
 昼が正・テーゼ、夜が反・アンチテーゼ、すると、黄昏、夜明け(英語のtwilight〔薄明〕がぴったしの言葉である)が合・ジンテーゼになるだろう。
 そう、私が気にしていたのは、弁証法のマルクス的変形、即ち、唯物弁証法である。それは、正反合の合において、正が新たに復活するというような内容である。
 しかし、それは弁証法の歪曲である。あくまでも、合は正と反との結合・統合でなくてはならないのであり、合において、新たに正が復活するというのは、反の否定であり、それは、合ではなく、新正に過ぎない。それは、偽弁証法である。
 マルクスの共産主義の弁証法はそのようなものである。初めに、原始共産主義(正)があり、次ぎに、資本主義(反)があり、そして、共産主義が資本主義を止揚・揚棄aufhebenする(合)というものである。
 しかし、当然、ここでは、資本主義(反)が否定されて、合に入っていないのである。これは、弁証法ではなく、二項対立主義である。マルクスの唯物弁証法は偽弁証法であり、端的に、二項対立主義なのである。
 しかしながら、このような二項対立性はヘーゲル弁証法にあったのではないか。
 ヘーゲル弁証法はざっと言えば、精神(正)⇒物質(反)⇒物質形式(形相)をもった新精神(合)である。
 確かに、物質形式を含むという点では合の作用をもつ。しかし、精神(正)が回帰するのであり、合本来の正と反の共立性が成立するのではないのである。正と反の共立性とは端的に、陰陽極性、陰陽氣一性のことと考えられるのである。
 以上で、簡単であるが、弁証法批判を行なった。だから、上記の昼と夜の「弁証法」は、昼と夜の陰陽極立性とでも言うべきものである。

後記:弁証法、とりわけ、ヘーゲル弁証法であるが、それは、陰陽共立原理であると同時に二項対立を含んでいると言える。それは、これまで私が述べてきたではあるが。
 弁証法というタームは確かに今でも有効ではあるが、二項対立を内包しているので、批判的使用すべきである。
 思うに、対極弁証法、陰陽弁証法と呼ぶのが、適切である。


構造主義革命:今更ではなく、本当の知的革命・進化だ
テーマ:哲学:叡知学、哲理学、哲科学

うっかり忘れるところだったが、構造主義のシニフィアン(意味するもの)とシニフィエ(意味されるもの)の区別が浮んだ。
 思うに、これは、「モダニズム」の二つの様相ではないだろうか。
 ここで構造主義言語学の用語を使うと、シニフィアンとは、たとえば、「政府」を「凄腐」というような表記する場合の「凄腐」である。
 シニフィエとは、この場合、端的に国制である。
 「モダニズム」、これは、ポスト・モダンないしトランス・モダンとか言えよう。
 とまれ、二つの様態があるのである。
 しかし、どちらが根本かと言うと、後者ではないかと思う。
たとえば、「豆腐」を考えた場合、シニフィアン派は、私がよくするように、「頭腑」というような表記を考えるだろう。
 これはそれなりに、「滑稽」であるが、実際的ではない。
 「豆腐」のシニフィエ、つまり、本質を理解することがもっとも重要と考えられる。
 「モダニズム」はシニフィアン中心に進展し、シニフィエの本質を看過したということではないだろうか。
 簡単であるが、筆者なりに極めて重要な哲学的問題点を指摘しておく。

追記:「豆腐」のシニフィエについて、説明が必要である。
 視点を変えて、たとえば、「森」を考えたい。
森の「シニフィエ」とは、実は、氣になるのである。氣精心、氣身体となるのである。
 「モダニズム」は、この点を排除しているのである。



父権自我(陽自我)と知性・ココロ・理性
テーマ:GP陰陽哲理学:ガウス平面と陰陽論の統合

東海アマ氏の記事は311以前から、HPで読んでいた。
直観的洞察力というべきもの、また、倫理感をもっている。
しかし、自己認識を過信・盲信する傾向がある(追記:端的に、短絡的ということである)。地震予知や以下にあるような韓国人批判等においてである。
 とまれ、今考察したいのはそのことではなく、『「他人を見下したい」とする自尊心』についてである。
このような性質をもつ自我は父権自我であると考えられる
 これまで数え切れないくらい述べたように、父権自我は陽自我であり、同一性主義自我である。言い換えると、二項対立、優劣志向をもつ自我である。
 復習をしよう。
 陰陽氣精心(氣精芯)、又は、陰陽精神において、陽とは同一性志向であり、中心化志向、唯一化志向をもつ。
 それに対して、陰は非同一性志向、他者志向、脱中心化志向をもつ。
 この正反対な性質をもつ陰と陽によって一体化しているのが、陰陽氣である。
 これは、鈴木大拙氏の即非の論理と通じるものである。否、陰陽極性とは即非の論理であると言っていいのである。
 さて、父権自我=陽自我は自我同一性中心主義であり、他者を排除する。極論すれば、独我・唯我論である。
 父権陽自我は、「我は同一性知識をもっている。故に、知っている。故に、真理であり、賢い。」というような様相をもつだろう。
だから、「我は正しい。我は倫理・道徳・道である。」というように展開する。端的に、独善論である。
 とまれ、そのような視点を父権・陽自我はもつと考えられる。
故に、自我は優位であり、他者は劣位である。「我は優れているのであり、他者は劣っているのである。」これは、埴谷雄高氏が批判した自同律である。某国の首相の言う「私は首相だから、正しい」というような発想と共通である。
 結局、何が言いたいのかと言うと、父権・陽自我は、自己中心に他者を破壊するということである。
 日本では父権民族が支配してしまった。
 今は余裕がないので、簡単に言うと、

続き:

結局、父権自我、陽自我は同一性自我であり、他者を同一性化するのである。ここには他者としての他者はない。
 本記事の問題点は、父権自我と知性の問題であり、これは先に述べたが、さらに深めたい。
 端的に言えば、父権自我は知性というより、知識を得るのである。それも物質的知識である。つまり、同一性である父権自我は、同一性知識=物質的知識を得るのである。
 しかし、これを知性と一致させることはできない。
なぜなら、知性とは、自我とは別の次元の知であるからである。
 日本の「科学者」の問題点はここにある。自我観念の知識はもっているが、知性はないのである。
 自我を超えたところに知性はあるのであり、ほぼ理性と一致するのである。
 確かに、知識は知性の一端ではあるが、知性そのものではないのである。脱自我化しないと真知性はないのである。
 そう、真知性、ないし、本知性というタームを作ってもいい。
 だから、科学者とは、真知性人でなくてはならないのであるが、日本の「科学者」のほとんどは、知識主義者に過ぎない。
 というか、本当は、科学者は創造者であるが、日本の「科学者」は、模倣者に過ぎない。似非科学者である。
 以前述べたように、知性はココロと関係するのである。
 つまり、脱自我の精神、ココロにおける知が知性なのである。
これは、実は理性と言っていいのである。知性=理性である。
 ココロとは他者性に通じているのであり、他者性とは、普遍性である。
 結局、薬局、今日の「科学」は、自我欲望と一体であり、既成の知識をドグマ化しているのであり、本当の科学、つまり、創造的知ではないのである。
 そう、言おう。哲学なき科学とは、盲目であり、誤謬である。
 日本の「科学・技術」とは、単なる唯物科学・技術であり、本来の創造的知・技ではないのである。

amaちゃんだ ‏@tokaiamada 5 時間5 時間前
韓国言論界重鎮 韓国人は日本人より優れているとの思い込み
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20150716-00000002-pseven-kr … 全くその通り 韓国人には「他人を見下したい」とする自尊心がめちゃくちゃに強い いつでも他人を小馬鹿にしている
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