2007年01月26日 (01:19)
ヴィジョンとは何か:視覚とはどこから生じるのか:夢の問題から
夢のヴィジョンに拘りたい。夢は不思議である。夢の映像は、夢を見ている時は、現実である。ほんとうに、現実と感じているのである。リアリティがあるのである。Seeing is Believing. 見るとは、何か。視覚・視とは何か。ここでも、直観から考察しよう。
私は、ヴィジョンは、身体的他者と関係していると思っている。感覚的に言えば、身体の奥底からヴィジョン・視覚・映像が生まれると感じられるのである。それは、何だろうか。そう、身体的他者に映る映像である。ここで、作業仮説的に、このヴィジョンを心的主体性iと身体的他者性-iとの「融合」によって形成されるとしよう。すると、これは、連続的同一性というよりは、即非的「融合」を意味しているのではないだろうか。また、リアリティとは何かの問題ともなるのであるが。
では、目覚めている時の視覚認識はどうなるのだろうか。それは、即非認識なのか。今、眼前に本がある。ここには、リアリティがある。本のリアリティがあるのである。(私はここに個物・個体の特異性を見るのであるが。)その本を単に物質とみるならば、それは、i*(-i)⇒−1である。しかし、私はそれを、差異的同一性と見なすので、i*(-i)⇒+1である。すると、やはり、即非様態である。これは、理事無碍であろう。
すると、夢と覚醒時のリアリティの知覚が共通となるだろう。ただ、覚醒時には、外的光があるのが、異なる点である。
では、問題は、夢の時の身体的他者-iと、覚醒時の身体的他者-iの違いである。この違いは、当然ながら、外的知覚の有無にある。そう、即非的光と外的光の問題である。見る・視覚とは、何なのか。作業仮説的に言うと、心の光と身体の「光」(闇)の結合したときに発生する光の認識ではないのか。光と闇の接合が見ること・視覚ではないのか。おそらく、光の目と闇の目があるのであり、両者の目が合一した面が、即ち、見ること・視覚・視である。思うに、この境界面で、色彩や虹が生じるのであろうし、また、形態・形相も発生するのではないだろうか。元像である。ここが、主客合一の領域でもあるだろう。因みに、日本語の文法は、ここを反映していると言えよう。ここでは、内と外が即非様相にあるだろう。あるいは、未分化と言えるかもしれない。いちおう、これが、即非的光ないし即非的ヴィジョンの解明としよう。
次に外的光であるが、それと、即非的光の内界はどう関係するのだろうか。問題は、外界の光とは何か、である。具体的に考えよう。早朝の光を考えよう。光り輝く太陽が上る。これは、何か。オカルト主義者は、これを内なる太陽の光と見るだろう。しかし、それでは、外なる太陽を無視している。内なる太陽と見るなら、それは、夢と同じである。そう、オカルト主義者は、夢と現実を混同しているのである。
ここで、連続的同一性志向性を考えるべきだろう。これは、言わば、心の光で身体の闇を同一性化するのである。おそらく、これが、外界の光ではないのか。つまり、心の連続的同一性・現象化が外光であるのではないのか。ここでは、身体の闇は覆われているのである。つまり、現象光は、即非の光の連続的同一性現象であるということになる。そして、この現象光を内界の視覚は見ていることになるだろう。おそらく、ここには混乱が生じるだろう。内界の視覚は、心の光と身体の闇の即非的視覚であるから、本来、即自的である。しかるに、外光に接した時、それは、対自化(あるいは、疎外)されるのである。内界の視覚は、いわば、外光に眩(くら)まされて、身体的闇を喪失して、連続的同一性である外光に、いわば、襲われるのである。このとき、おそらく、内界において、反動が生じて、内界は、外光に対して、反抗する視覚を投射すると思うのである。即ち、内界自体が連続的同一性化するのである。これが、自我の誕生であろう。内界が自己であるが、それが、否定・排除・隠蔽されるのである。そして、ここに、無明(フッサールの自然的態度)が発生すると考えられるだろう。イデア的光から、現象的光への転化がここにはあるのである。
今は、ここで留めたい。
私は、ヴィジョンは、身体的他者と関係していると思っている。感覚的に言えば、身体の奥底からヴィジョン・視覚・映像が生まれると感じられるのである。それは、何だろうか。そう、身体的他者に映る映像である。ここで、作業仮説的に、このヴィジョンを心的主体性iと身体的他者性-iとの「融合」によって形成されるとしよう。すると、これは、連続的同一性というよりは、即非的「融合」を意味しているのではないだろうか。また、リアリティとは何かの問題ともなるのであるが。
では、目覚めている時の視覚認識はどうなるのだろうか。それは、即非認識なのか。今、眼前に本がある。ここには、リアリティがある。本のリアリティがあるのである。(私はここに個物・個体の特異性を見るのであるが。)その本を単に物質とみるならば、それは、i*(-i)⇒−1である。しかし、私はそれを、差異的同一性と見なすので、i*(-i)⇒+1である。すると、やはり、即非様態である。これは、理事無碍であろう。
すると、夢と覚醒時のリアリティの知覚が共通となるだろう。ただ、覚醒時には、外的光があるのが、異なる点である。
では、問題は、夢の時の身体的他者-iと、覚醒時の身体的他者-iの違いである。この違いは、当然ながら、外的知覚の有無にある。そう、即非的光と外的光の問題である。見る・視覚とは、何なのか。作業仮説的に言うと、心の光と身体の「光」(闇)の結合したときに発生する光の認識ではないのか。光と闇の接合が見ること・視覚ではないのか。おそらく、光の目と闇の目があるのであり、両者の目が合一した面が、即ち、見ること・視覚・視である。思うに、この境界面で、色彩や虹が生じるのであろうし、また、形態・形相も発生するのではないだろうか。元像である。ここが、主客合一の領域でもあるだろう。因みに、日本語の文法は、ここを反映していると言えよう。ここでは、内と外が即非様相にあるだろう。あるいは、未分化と言えるかもしれない。いちおう、これが、即非的光ないし即非的ヴィジョンの解明としよう。
次に外的光であるが、それと、即非的光の内界はどう関係するのだろうか。問題は、外界の光とは何か、である。具体的に考えよう。早朝の光を考えよう。光り輝く太陽が上る。これは、何か。オカルト主義者は、これを内なる太陽の光と見るだろう。しかし、それでは、外なる太陽を無視している。内なる太陽と見るなら、それは、夢と同じである。そう、オカルト主義者は、夢と現実を混同しているのである。
ここで、連続的同一性志向性を考えるべきだろう。これは、言わば、心の光で身体の闇を同一性化するのである。おそらく、これが、外界の光ではないのか。つまり、心の連続的同一性・現象化が外光であるのではないのか。ここでは、身体の闇は覆われているのである。つまり、現象光は、即非の光の連続的同一性現象であるということになる。そして、この現象光を内界の視覚は見ていることになるだろう。おそらく、ここには混乱が生じるだろう。内界の視覚は、心の光と身体の闇の即非的視覚であるから、本来、即自的である。しかるに、外光に接した時、それは、対自化(あるいは、疎外)されるのである。内界の視覚は、いわば、外光に眩(くら)まされて、身体的闇を喪失して、連続的同一性である外光に、いわば、襲われるのである。このとき、おそらく、内界において、反動が生じて、内界は、外光に対して、反抗する視覚を投射すると思うのである。即ち、内界自体が連続的同一性化するのである。これが、自我の誕生であろう。内界が自己であるが、それが、否定・排除・隠蔽されるのである。そして、ここに、無明(フッサールの自然的態度)が発生すると考えられるだろう。イデア的光から、現象的光への転化がここにはあるのである。
今は、ここで留めたい。

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