2007年07月13日 (09:34)

性sexとは何か:視覚と共振性と触覚:視触覚としての性

性とは何か、考えたい。
 これは、根源的には、イデアの差異に拠ると思われる。iが男性ならば、-iが女性である。このような二元性は、もう済んでいることである。
 私が問題にしたいのは、経験論的な性である。iが視覚なら、-iは触覚であり、後者が単純に見ると、性になるだろう。しかし、それは、単純過ぎよう。
 性には、明らかに、差異が必要である。同性愛の問題があるが、私見では、同性愛も異性愛の変異であるので、ここでは、異性愛を見ると、明らかに、差異がなければ、異性愛は成立しない。もっとも、ここでは、異性愛というより、性を問題にしているのではあるが。
 とは言え、やはり、性は、単に、触覚の問題ではないと思う。ここで、谷崎の名作『春琴抄』を想起するが、しかし、盲目であっても、盲目の世界の中で、他者(性的他者)を、触覚的に認識しているのではないのか。つまり、触覚的視覚(触視覚としよう)があるのではないだろうか。
 触視覚こそ、性の基盤ではないだろうか。というか、触視覚が性へとある意味で特化されていると思う。だから、性とは、触視覚と言えそうである。そうだからこそ、性は、差異であり、同一性化することはないのである。他者と同一性化したとき、そこには、性はない。
 エロティシズムは、だから、差異であると言えよう。だから、倫理に似ているのである。カント哲学は、最高度にエロティックであると言えよう。プラトン哲学のエロースは、正に、天使的エロティシズムである。
 ここで、官能性とエロティシズムを区別しないといけない。官能性は、肉体の生殖のための構造から来ているのではないかと思う。若い女性の裸体を見て、性欲をそそられるのは、それは、まったく生殖構造から来ていると思う。
 エロティシズムとは、本来、異なるのである。今日、両者が混同されているだろう。
 そう、バタイユが、エロチシズムとは、死に至るまでの生の歓喜であると言ったが、それはどうだろう。それは、性欲的発想だろう。それは、エロティズムではないと思う。
 視触覚的差異、これが性であり、エロティシズムであると思う。
 では、タイトルに出した共振性との関係はどうなるのだろうか。もう、簡単である。共振性が性であり、エロティズムである。
 そう、エネルギーを共振性とするなら、自然は、実に、性的であり、エロティシズムに満ちたものである。そして、相対性理論や量子力学も性的であり、エロティズム的である。
 思えば、性という字は、自然性を意味しているのだ。自然(じねん)でもあり、古代ギリシアのフュシスに近いだろう。弁証法は、反エロティズムである。対極性、即非性は、エロティズムである。仏教や東洋思想がエロティズム的なのは、必然的である。

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sophio・scorpio

  • Author:sophio・scorpio
  • 2004年(平成16年)9月23日、ブログ上で、ODAウォッチャーズ氏(ブログ『海舌』)と遭遇して、新しい理論、不連続的差異論が誕生しました。まったく思いもよらぬ出来事でしたが、この結果、独創的な理論が生まれたと自負しています。とても簡潔な理論ですが、文系、理系の分化を乗り越えた統一的理論で、多くの分野・領域に適用可能だと考えられます。
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