2005年10月23日 (00:54)
ポスト新自由主義へ向けて:単純利己主義から相互利己主義へ:個体差異自由経済=個体差異共存経済
新自由主義とは、資本主義の純粋化である。国家の規制を最小として、市場原理を絶対とするのである。しかし、市場とは何かである。というか、それ以前に、交換価値とは何かを考えなくてはならない。これは、量的価値であり、マルクスが説いたように、一般的価値であるが、しかし、単に一般的価値だけではなくて、個人の力と結びついた価値であろう。つまり、これは、イデア界と結びついていると考えられるのではないだろうか。そう、交換価値とは、きわめて、現象界的である。あるいは、自然的である。不連続的差異の連続・同一性化である現象界と一致すると言えよう。自然のもつ仮象性と結びついているだろう。だから、これを解体するのは容易ではない。それは、いわば、反自然的行為が必要である。資本主義、新自由主義は自然なのである。そして、この自然は、破壊的なのである。エントロピーの増加である。死へと邁進している。結局、新自由主義は、自然のいわば摂理である。破壊的自然である。ここで、シェイクスピアの『リア王』のグロースターの私生児エドマンドを想起する。彼とゴネリルとリーガンが「新自由主義」的自然である。この破壊衝動は何なのだろうか。これは、一神教的衝動である。ヤハウェ的衝動である。我有り有りて、有り余れるものなり。これは、イデア界の過剰、イデア・エネルゲイア、ディオニュソス的なものである。小泉首相はディオニュソス的である。私はこれまで、一神教的衝動を反動として捉えてきた。しかし、連続・同一性という自然のシステムから見たら、反動ではないのではないだろうか。ならば、多神教はどうなるのだろうか。
ここで、再点検しよう。イデア界とメディア界の境界、IM境界で、最初の連続化が起こる。そして、メディア界と現象界との境界、MP境界で、自我化が完成するだろう。しかし、ここで、多様性を自我統合しようとするだろう。自我中心的に、他者を統括しようとするのである。だから、多神教と一神教との「差異」とは、このメディア界と現象界との境界、MP境界にあると言えるだろう。両者、IM境界は共通である。しかし、MP境界において、相違が生じる。多神教は、IM境界の差異共存性を肯定しつつ、「自己実現」する。つまり、MP境界は、形式⇒個体現象というようになる。しかし、一神教においては、捩れが入るのである。差異共存性を捩じ伏せるようにして、自我統合を図るのである。この捩じ伏せが問題点である。この起点はどこなのか。もし、差異共存志向性があれば、それを捩じ伏せないといけないだろう。だから、この起点は、MP境界ではなくて、IM境界となるだろう。ここで、作業仮説であるが、IM境界において、90度回転に対する反動が生じるとしよう。それは、メディア界化に対する反動・反作用である。つまり、差異共存から差異連結化への反動・反作用である。つまり、不連続的差異性の反作用ではないか。これが、一神教の起源・震源・起動点ではないだろうか。水平化に対する垂直化の反動・反作用・反発である。だから、差異共存性に基づくメディア界的多様性である多神教を否定しようとするのではないだろか。つまり、これは、ガウス平面で言えば、さらに90度回転ということで、180度回転、1/2回転ではないだろうか。しかし、さらに、これが、90度回転するだろう。270度回転、3/4回転である。これは、新たな差異共存/差異連結化であり、これからさらに90度回転して、4/4回転で、回帰する。つまり、根源の起源回帰である。
とまれ、一神教とは以上のようなものとするならば、差異共存性を破壊し、無、カオスへと向かう。というか、連続・同一性を破壊するのであり、差異を志向しているのである。連続・同一性を徹底的に破壊するのである。それは、新たな差異共存性を志向していると言えるだろう。
ここで、経済に適用すると、一神教とは新自由主義であり、それは、連続・同一性である国家資本主義、官営資本主義、社会主義的資本主義を破壊する。その市場主義とは、不連続性の志向である。そして、その不連続性は、差異共存性を志向するに違いない。その差異共存的経済とは何だろうか。それは、個体的差異に基づく経済である。若きマルクスの経済学だろう。フッサールの生活世界である。ロレンスの『死んだ男』である。折口の『死者の書』である。個体的差異を単位とする経済である。それは、IBMのような企業では実際起こっている事象である。個体的差異的経済である。そのための、市場経済である。新自由主義は、個体差異的自由経済を内在・潜在している。悪魔の新自由主義は、天使の個体差異自由経済を内在させているのだ。結局、私が言う差異共存主義とは、このことではないだろうか。個体差異自由経済が、差異共存主義ではないか。個体差異は明らかに、共存共創するだろう。なぜなら、差異はそういうものだからだ。
ここで、再点検しよう。イデア界とメディア界の境界、IM境界で、最初の連続化が起こる。そして、メディア界と現象界との境界、MP境界で、自我化が完成するだろう。しかし、ここで、多様性を自我統合しようとするだろう。自我中心的に、他者を統括しようとするのである。だから、多神教と一神教との「差異」とは、このメディア界と現象界との境界、MP境界にあると言えるだろう。両者、IM境界は共通である。しかし、MP境界において、相違が生じる。多神教は、IM境界の差異共存性を肯定しつつ、「自己実現」する。つまり、MP境界は、形式⇒個体現象というようになる。しかし、一神教においては、捩れが入るのである。差異共存性を捩じ伏せるようにして、自我統合を図るのである。この捩じ伏せが問題点である。この起点はどこなのか。もし、差異共存志向性があれば、それを捩じ伏せないといけないだろう。だから、この起点は、MP境界ではなくて、IM境界となるだろう。ここで、作業仮説であるが、IM境界において、90度回転に対する反動が生じるとしよう。それは、メディア界化に対する反動・反作用である。つまり、差異共存から差異連結化への反動・反作用である。つまり、不連続的差異性の反作用ではないか。これが、一神教の起源・震源・起動点ではないだろうか。水平化に対する垂直化の反動・反作用・反発である。だから、差異共存性に基づくメディア界的多様性である多神教を否定しようとするのではないだろか。つまり、これは、ガウス平面で言えば、さらに90度回転ということで、180度回転、1/2回転ではないだろうか。しかし、さらに、これが、90度回転するだろう。270度回転、3/4回転である。これは、新たな差異共存/差異連結化であり、これからさらに90度回転して、4/4回転で、回帰する。つまり、根源の起源回帰である。
とまれ、一神教とは以上のようなものとするならば、差異共存性を破壊し、無、カオスへと向かう。というか、連続・同一性を破壊するのであり、差異を志向しているのである。連続・同一性を徹底的に破壊するのである。それは、新たな差異共存性を志向していると言えるだろう。
ここで、経済に適用すると、一神教とは新自由主義であり、それは、連続・同一性である国家資本主義、官営資本主義、社会主義的資本主義を破壊する。その市場主義とは、不連続性の志向である。そして、その不連続性は、差異共存性を志向するに違いない。その差異共存的経済とは何だろうか。それは、個体的差異に基づく経済である。若きマルクスの経済学だろう。フッサールの生活世界である。ロレンスの『死んだ男』である。折口の『死者の書』である。個体的差異を単位とする経済である。それは、IBMのような企業では実際起こっている事象である。個体的差異的経済である。そのための、市場経済である。新自由主義は、個体差異的自由経済を内在・潜在している。悪魔の新自由主義は、天使の個体差異自由経済を内在させているのだ。結局、私が言う差異共存主義とは、このことではないだろうか。個体差異自由経済が、差異共存主義ではないか。個体差異は明らかに、共存共創するだろう。なぜなら、差異はそういうものだからだ。

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