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2007年10月29日 (01:27)

Media Pointと同一性の関係:ポスト・モダンはメディア同一面哲学で、MPには不到達である

浮かんだアイデアは、すぐ展開しないと、後では消えてしまう。本件で何を思いついたか、今は、忘れてしまっている。思い出してみよう。公園で読んでいた本にメモしてあったので、それをここに書こう。【同一性メディアの両義性、同一性メディア平面の闇】である。
 これは、昨日書いたのと同じ事柄である。つまり、Media Pointが同一性に張り付くというような事態のことである。メディア同一性平面と言ってもいい。これは、ドゥルーズの内在平面と同じである。
 そうだ。ようやく思い出した。つまり、以前言及したことではあるが、このメディア同一性平面(以下、メディア同一面)に、超越性が入っているのか否か、という問題である。ポスト・モダン哲学(ドゥルーズとデリダ)を考えるときに問題になった事柄である。そのときは、ドゥルーズ&ガタリ哲学(以下、ドゥルーズ哲学)には超越性を認めて、デリダ哲学には認めなかったと思う。
 しかしながら、ドゥルーズ哲学は、現象学の超越論性を否定している。デリダ哲学は基本的に、超越性を認めていないことは確定できるが、ドゥルーズ哲学の場合は曖昧さが残る。しかしながら、メディア同一面を考えると、ドゥルーズ哲学は、正にそこに当てはまるのである。だから、それには、超越性はないと見るべきだ。
 メディア同一面においては、差異は同一性と融合しているのである。言い換えると、差異は連続的差異=微分になっているのである。この連続的差異には、流動性があるので、何か超越性と勘違いするのである。
 既述した通り、ドゥルーズの特異性は錯誤・誤謬(インチキ)であり、それは、疑似・似非特異性である。それは、実軸のMedia Pointに過ぎない。つまり、メディア同一面のゼロ度であると考えられる。思うに、メディア同一面とは、マイナスの実軸で提示できるのではないだろうか。因みに、フッサール現象学は、正に、Media Pointが同一性へと志向する始点を捉えたのではと思われる。しかしながら、ハイデガー哲学は、ドゥルーズ哲学と同様に、メディア同一面のゼロ度を本来的存在として捉えている、つまり、フッサールが捉えたMedia Pointの端点・始点を看過してしまった。
 さて、問題は、以前と同様に、メディア同一面に、純粋Media Point自体が関与しているのか、である。メディア同一面とは、Media Pointが同一性に変容してしまっているものであり、純粋なMedia Pointはないと考えられる。
 ダイナミクスの問題を考えなくてはならない。Media Pointのエネルギーは、確かに、同一性に変換されて、メディア同一面を賦活・活性化するだろう。しかし、このエネルギーはもはや超越的エネルギーではなくて、連続的同一性エネルギーである。この点が、Media Pointとメディア同一面の関係を混同させていると考えられる。
 ここで明確にしておこう。Media Pointとメディア同一面とは分離されるもの、つまり、不連続なものであるということである。ハイデガー哲学を含めてポスト・モダン哲学は、フッサール現象学が到達した(超越的な)Media Pointの始点を看過して、メディア同一面の哲学に留まったのである。
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