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2007年11月01日 (00:04)

検討問題:西洋文明と東洋文明

自己認識方程式であるが、i*(-i)⇒+1の左辺のiは父権制、左辺の-iは母権制を意味するのではないのか。
 もっとも、逆にして考えることもできるが、結局同じことになる。思うに、大きな時代の始まりは、エネルギーが賦活されるのであるが、近代とは、新たなエネルギーの時代であり、Media Pointが賦活されたということかもしれない。初期は、ルネサンスであり、超越性と現象性が未分化的に融合していたが、プロテスタンティズムとなると、近代的自我の同一性が強化されて行き、超越性が薄れて行く。
 明治維新を考えると、やはり、近代の動きではあるが、超越性と現象性が未分化であったと思う。そう、ルネサンス的と言えるかもしれない。明治ルネサンスである。しかしながら、日本の場合は、国家主義が強く、また、全体主義傾向が強かった。これは、西欧のように、時間をかけて、近代化したのではないから、超越性が全体主義化に作用したように思える。
 この問題は、ポスト・モダンにおける超越性の問題と通じるので、後でさらに検討したい。昨日、超越性と現象性との連続化について述べたが、それでいいようにも思われる。言い換えると、超越性と同一性との癒着である。あるいは、差異と同一性の混淆・混同である。
 後で整理したい。

p.s. iは能動的であり、-iは受動的ではないだろうか。西洋文明は前者中心であり、能動的同一性主義である。それに対して、東洋文明は両者を均衡させていたのではないだろうか。陽と陰のバランスを取っていたように思う。しかし、西欧近代主義は、陽中心主義となり、陰性を否定して、バランスを破壊していった。
 東洋文明は、Media Point文明であろう、本来。明治維新は、確かに、近代化であり、超越性に駆動されている。しかしながら、それは、父権性ないしは近代的自我へと傾斜した。つまり、超越性が直截に自我と連続化したのだと思う。それが、全体主義となったのではないだろうか。Media Pointからのエネルギーが徐々に近代的自我へと進展するときは、超越性が次第に弱化するが、近代日本の場合は、急激に近代化して、その余裕がなく、超越性が直に同一性へと接続したように思える。いわば、ショートしたのではないだろうか。狂気である。
 とまれ、確認すると、西洋文明はi中心の文明であり、東洋文明は本来Media Pointを基盤として文明であったが、西欧近代化によって、自己の基盤を喪失するようになったと言えよう。
 原因は、西洋文明の言葉には、東洋文明を翻訳する適切なものがなかったためと言えるだろう。同一性主義の文明と差異の文明では、相反的なのである。もっとも、既述したように、西洋文明は19世紀後半から東洋文明へと接近していたのである。
 
p.p.s. 直感では、-iがコスモスと関係していると思えるのである。これをどう考えたらいいのか。理論的には、iと-iとの相互作用において、コスモスが生起するのである(参考:聖書の天地創造)。
 近代的自我のように、-iを否定して、i中心であると、コスモスは隠蔽されたままである。しかしながら、-iを意識化すると、当然ながら、iと-iとの相互作用が意識される。つまり、賦活化される。-iにおいて、コスモスを感じるというのは、それは、実際は、iとの相互作用を意味すると考えられるだろう。思うに、禅や瞑想は、この相互作用の賦活化にあると思う。根源との繋がりを、宗教的に言えば、神性との接触をもたらすと言えよう。臍下丹田というのも同様の発想であると思う。
 このように考えると、単純に、-iが母権的とは言えないのかもしれない。母権的とは、相互作用があるのではないだろうか。この点は後で再検討。
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