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2007年11月25日 (20:11)

視(聴)覚と同一性と自我:近代的三位一体とMedia Pointの三元性(三柱の神々):神道復興

これらの構造、すなわち、同一性構造を解体する必要がある。資本主義は、この構造と一如(いちにょ)であると考えられる。
 欲望は、この構造に支配されているのである。たとえば、投機であるが、この同一性構造のもたらすものである。これは、自我拡大を意味する。同一性貨幣と自我が一体化していて、同一性貨幣の増加は、自我の欲望の拡大であり、自我強化につながる。これが投資欲望の意味である。
 ここには、差異が欠落しているのである。ただ、同一性中心主義があり、自我中心主義があるだけである。これは、精神の健康から言うと、病理的な様態である。私は狂気と呼ぶのであるが、狂気が近代/現代世界を支配しているのである。悪魔・悪霊と言ってもいい。つまり、今日の世界は地獄であるということである。悪魔・狂人が支配しているのであるから。さらには、愚人(痴愚者)がいるのである。だから、悪魔・狂人・愚人の地獄世界である。仏教で言えば、六道(ろくどう、りくどう)の三悪道(地獄道・餓鬼道・畜生道)である。仏教は叡知学(ソフィオロジー)である。【この同一性中心主義ないしは同一性三位一体であるが、直感では、キリスト教三位一体から生まれたもののように思える。父が同一性の志向性(同一性エネルゲイア)であり、子はその物質的帰結(エンテレケイア)であり、聖霊は同一性感情・欲望ではないだろうか。】
 私が問題にしたいのは、同一性と感覚、とりわけ視覚ないしは視聴覚との関係の問題である。また、投資欲望が客観的にどういう事態を意味しているのかという問題である。
 一番目の問題を考察しよう。基本的には、同一性三位一体であるのだから、同一性と感覚は一体なのであるが、その構成の発生の仕組みを見たいのである。たとえば、花を見るとしよう。主体は+iであり、客体は-iである。「わたし」は「花」を見る。この場合、+iは知覚・認識機能であり、他者-i「花」を見るのであるが、-i「花」自体は見えないのである。+iの同一性知覚・認識作用によって、他者-i「花」を知覚・認識するのである。これは、(+i)* [-(-i)]である。つまり、(+i)^2=-1の同一性知覚・認識である。だから、知覚・認識された「花」とは、客体に存するというよりは、主体に存するのである。つまり、+iにおいて、「花」が存すると言えよう。
 ここでフッサール現象学を想起するのが妥当であろう。(あるいは、ソシュール言語学である。)+iはノエシスであり、(+i)^2=-1はノエマであろう。ここでは、他者-iを把捉・理解していはいないのである。ただ、他者に当たり、自己反射・自己投影しているのである。つまり、他者が鏡面になっているのである。言い換えると、己(おのれ)の影・映像・影像・射影を見ていると言えるだろう。「花」は己の内にあり、それを他者に投影しているということになるだろう。真の他者-iは無理解のままである。思うに、「花」であり、ノエマである(+i)^2=-1が感覚、この場合は視覚と言えるだろう。そして、これは、主体から発しているのであり、自我と一体である。というか、この視覚像と平行して、自我が形成されると言うのが正確だろう。結局、(+i)^2=- 1の累積・反復が同一性三位一体を形成すると言えよう。これは、また、パラノイアの形成でもあるのだが(私は近代的自我を狂気であると考えている)。
 この連続的同一性三位一体であるが、同一性欲望(聖霊)をもっている。ノエシス自体が同一性欲望であるとも言えよう。(思うに、ハイデガーの本来的存在とは、このノエシスのことではないのか。つまり、ノエシスを存在と言い換えただけではないのか。)そして、これは、食欲や性欲や物欲、さらには金銭欲と一致するだろう。【創世記で、アダムがイヴを知ったとあるが、この「知る」は性交するということである。これは、同一性の知を形成したということではないのか。アダムやイヴが互いを同一性欲望の対象としたということではないのか。知恵の木の実の知恵とは、同一性の知であり、差異の知ではないのではないのか。確かに、善悪二元論は同一性の知によるのである。権力的道徳は、同一性的知によると考えられるからである。とまれ、アダムとイブの形成した知恵とは同一性の知=同一性欲望であると言えよう。差異の知恵とは、永遠の生命の知恵であり、これを神はアダムとイブに禁じて、エデンの園から追放したのである。そして、永遠の生命へのわずかな手段として、イエス・キリストと聖霊を神は人間にもたらしたということになる。これは、人間の家畜化である。東洋思想は、永遠の生命へと達する方法を身体技法として開発したのである。たとえば、ヨガであり、瞑想である。これは、東方キリスト教のヘカシズムには残っていると言えよう。テオーシス・神化の思想である。考えると、神の行為は奇妙である。もし、人間が同一性の知を得たならば、それを補正するものとして、差異の知恵を形成する自主的方法を伝えるべきである。ただ、イエス・キリストと聖霊によるしかないというのは、洗脳以外のなにものでもないのではないか。この件は後で検討。】
 この同一性の志向性=同一性欲望は反復するとしよう。これは、(+i)^2kで表わせるだろう。同一性三位一体の反復である。以上は同一性と視覚の関係について考察したが、同一性と聴覚はどう関係するのか。これは、視覚とほぼ同様に説明できるだろう。ある客体である音を、同一性化するのであり、それを言語として、同一性の知とするのである。この問題はできれば後で詳述したい。
 さて、次に、投資欲望の意味について考察したい。これは、同一性価値である貨幣=金融資本を介しての、同一性価値の増殖意欲を意味する。同一性価値とは同一性欲望である。あるいは、同一性三位一体性である。同一性の主体(自我)にとって、これは、同一性の強度を拡大するものであり、当然、肯定されるのである。ここでは、他者-iは同一性権力のために利用・搾取される対象である。
 さて、このように考えてきて、私は、同一性三位一体が聖書ないしはユダヤ/キリスト教の本質と等価ではないかと思えてきたのである。キルケゴールのようにエイブラハムとイサクの話に特異性を見ることも可能であるが、全体としては、同一性中心主義の宗教・神話であると思うのである。思うに、私は以前、キリストと貨幣は同一であると考えたことがあるが、それは間違っていないのではないだろうか。同一性価値の物質化が貨幣であり、同一性衝動である父の物質化がイエス・キリストであるから、一致すると見ておかしくないだろう。この問題は後で再検討したい。
 ということで、投資欲望とは同一性三位一体のエネルギーによるものであり、これは、他者を結局破壊することになる。エントロピーの増加であり、熱死へと向かう。これは、自然が生んだ、いわば、鬼っ子である。悪魔である。
 しかしながら、自然は他方、差異共振性をも志向しているのである。これをどう考えるのか。自然は一方では、同一性へと志向する。これは、三次元空間ないしは四次元時空間の意味する。他方、差異共振性へと志向する。これは、四次元空間ないしは五次元時空間である。高次元空間である。そう、前者はマーヤー(幻象)であり、後者は本質・本体・本性である。
 西洋文明、正しくは、聖書文明は、前者に傾斜しているのであり、後者を否定・排除するのである。そして、ここに現代人類の超悲惨・超危機・超苦悩があるのである。現代人類は聖書西洋文明に洗脳されているので、差異共振性を忘却・亡失していているのである。あるいは、それを夢想・空想・幻想と思っているのである。
 ここで、自然のもつ差異共振性への発動について考えよう。近代合理主義が世界に広がったことからわかるように、それはある種の普遍性がある。しかるに、それは、本質の一面、表面、仮面である。(安部公房の『他人の顔』はそのパロディーであろう。)
 この差異の力学は端的にどういうものだろうか。Media Pointから同一性が現象するが、自然において、Media Pointは開いていると言えよう。ただし、同一性の感覚・知覚・認識によっては、Media Pointは把握できない。つまり、同一性認識にとっては、盲点となっているのである。思うに、前近代においては、人間は、Media Pointをなんらかの形で、直感していたと考えられる。民俗文化とはそういうものだろう。宗教・神話もそういうものだろう。
 しかし、近代化が進展すると、そういうMedia Pointの形象が失われる。それは、Media Point自体の差異共振エネルギーが弱化するからではないだろうか。同一性化へとエネルギーが向かうのである。自我・近代的自我・近代合理主義の形成の方向である。
 しかしながら、Media Point自体は無化されることはない。それが根源・源泉であるからである。ここで思考実験すると、Media Pointにおいて、双極的超越的差異が衝突する。そのとき、両者が反転する形が同一性の形成につながると言えよう。⇒-1である。しかし、両者が共振する形も当然あるのである。それが、⇒+1である。自然は、⇒±1を形成するのではないだろうか。しかし、聖書西洋文明は、⇒-1に傾斜して、⇒+1を徹底的に排除すると考えられる。これは、+iの同一性志向性に傾斜しているからである。
 思考実験を続けると、自然は、+iに傾斜したのであれば、当然、反作用として、-iに傾斜するはずである。同一性に対して、差異が賦活されると考えられるのである。しかしながら、単純に考えると、(-i)^2=-1となるのである。おそらく、これが、神秘主義、ロマン主義、オカルティズム、新興宗教、ポスト・モダン、ネオコン、ファンタジーの発生を意味するのではないだろうか。反近代合理主義である。身体主義でもある。思うに、これが現代の危機の一面でもあるだろう。つまり、反動化である。先に、私は同一性と差異との中間において、差異共振性が発生すると言ったが、正に、それは的確であると考えられる。
 では、差異共振性とは、発生力学としては、何を意味しているのか。ここで少し考え直そう。私は+iの傾斜があり、次に、-iの傾斜があると言ったが、そのような通時的な発想は間違いではないだろうか。双極的超越的差異の衝突があり、それは反転と共振の二つの様相、言わば、対様相をもつと考える方が的確なのではないだろうか。+iと-iの反転と共振の二種類の対であるから、双対性と言ってもいいのかもしれない。
 そうであれば、通時的な様相があるのではなく、共時・同時的な様相があることになる。つまり、同一性と差異と差異共振性の三相があることになる。これが正しいのではないだろうか。しかしながら、聖書西洋文明は、同一性に傾斜しているので、他者である差異、差異共振性を否定・排除・隠匿してしまうと考えられるのである。どうもこれが正しいようである。本来、人間の自己・魂・精神において、三相があるのであるが、聖書西洋文明の同一性中心主義によって、人類の基本的な三相バランスが破壊されて、精神病理状態になっていると考えられる。
 そして、ポスト・モダン理論は、同一性中心主義(デリダのロゴス中心主義)に対して、差異を提唱したのであるが、それは、反動であり、連続化された差異であったのである。フッサール現象学は、超越性までは達したが、同一性の方向しか捉えられなかったのである。(ハイデガー哲学は、超越性を否定して、同一性の志向性を存在と言い換えたのである。)
 ということで、Media Pointにおける共時・同時的三相形成を作業仮説として取ることにする。これは、思うに、古事記の三柱の神々を想起するのである。同一性が高御産巣日神(たかみむすひのかみ、高皇産霊神)、差異が神産巣日神(かみむすひのかみ、神産霊神)、差異共振性が天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)に相当するのではないだろうか。先に私は、いちおう、+iが高皇産霊神、-iを神産霊神、(+i)*(-i)を天之御中主神と考えたが、そう考えても、ほぼ同じであろう。この三柱の神々という観念こそ、至高の、もっとも崇高な観念であると言えよう。この三元的宗教・神話こそ、もっとも根本的であると言えよう。一神教とは、この三元的宗教・多神教から派生したものと考えることができよう。ヤハウェ(エホバ)とは、+iないしは同一性の神であると言えよう。この同一性の神が肥大化して、根源的三元神性を阻害していると言えよう。だから、三位一体とは誤りである。以前、述べたことがあるが、三位三体が正しい。
 神道がよみがえる必要がある。天照大神とは、天之御中主神に相当し、また、プラトニック・シナジー理論では、Media Pointの差異共振性に相当すると考えられるのである。思うに、女神、大女神(私は大母神ないしは原母神と呼びたい)は、ジェンダー的に、女性となっているが、これは、処女神と考えられる。これは、処女生殖との関係するだろう。そして、これは、森羅万象の根源・源泉を意味すると考えられるのである。そう、自然の根源・源泉、自然の穴である。天岩戸である。これは、火と水である。陰と陽である。ダビデの星である。おそらく、女性器とは、これを示唆しているのである。思うに、雌雄分離とは、Media Pointの三元性から二元性が分離したものではないだろうか。+と-の分離である。
 最後に、父権神話を考えよう。それは何であるのか。それは、同一性神話と言っていいだろう。あるいは、隠れ差異神話である。そして、同一性神話と差異神話とは反対で一致しているのである(1/2回転?)。これは二元論である。対極性である。しかし、本来的神話は、差異共振神話、三元論的神話である。古事記が正統なのである。古事記は超偉大な書物、超聖書、第三の聖書である。超福音書である。
 ということで、聖書西洋文明の乗り越えが必然なのである。新東洋文明の夜明けである。新たな太陽が昇るのである。今日は満月である。赤みを帯びたレモン色の真ん丸い月が東の空に上がっていた。
 

参考1:

最初の三柱の神々は記紀(古事記と日本書紀)では有名ですが、日本で広く信仰されている神様であるとは思わなかったからです。

しかし、最近になって、この三柱の神々に共通点があることに気が付きました。
それは、三柱とも、互いに解け合わない異世界との境界にたつ神なのです。

http://orchestra.musicinfo.co.jp/~kcpo/info/butterfly/J-God.html


参考2:
日本の伝説 神話記

 古来より神話に語られた伝説は古い日本語でした。語部(かたりべ:口話を伝える人)から語部に言い伝えられた言葉でしたが後世に中国から漢字が伝わり其の漢字を仮名文字で書き綴られて今日に伝えられて来たのです。
 古い話し方に字が当てられたので現代人には想像もつかぬ読み方が多くありますから読み仮名をつけておきましょう。
一、天地(あめつち)の創始

 吾々が住んで居る世界の始まりは何(ど)んな状態(ありさま)であったかと言うと、天地(あめつち)が未だ剖(わか)れる先ですから油の浮いた様に、又は鶏(とり)の卵の様に濁(にご)り混ぢったどろりどろりとした球(たま)の様な物なのです。それ等は宇宙の彼方此方(あなたこなた)の浮遊物やガスや塵(ちり)や埃が集まって出来かけた地球に成る卵の時代が長く続いた事です。

 その中に自然に萬物が出来る様な萌芽(めばえ)期に至り軽くて清い物は上に棚引いて大氣圏を造り重くて濁った物等は大球の中心点近くに滞(とどこお)って大地と成ったので有ります。軽い物は濁液球の上に浮き易く重い諸物は後に残るから天が先に出来、地が後から固まったのである。

 これが天地の創造で神話時代の神様や人間が出来たのはその後口では数え切れない程後の事なのです。
二、造化の三神

 天と地が出来様との宇宙活動と共に大自然と言う三つの神様が御発生(おでき)になったのです。

 第一番の神として 天津中主命(あめのみなかぬしのみこと)

 第二番の神は   高皇産靈命(たかみむすびのみこと)

 第三番の神は   神皇産靈命(かすみむすびのみこと)

 この三柱(みはしら)の神様は父もなく母もなく獨りで御発生になって今もずっと此の世に有らせられるが色もなく形もなく永遠にお姿を見る事の出来ない獨化(どくか)の三神と申し上げます。

 天津中主命はその御名の通りに天の眞中に唯一柱の大神(ひとはしらのおおかみ)で此の世界国土(地球天地・ちきゅうてんち)の創造神であらさられ、八百萬(やおよろず)の神々の一番最初の神様です。此の大神を輔(たす)けて萬物を作られたのが高皇産靈命、神皇産靈命です。

 この産靈(むすび)と言うは結ぶと言う事で、物と物が化合して新しい物質が産まれる事や何物と言えども一定の法則を持ち結合別離の法則に基づき引き合ったり反撥(はんぱつ)し合う天理(てんり・大自然のエネルギーとその法則) を神と唱えたのです。神その物は見えないがその働きの結果は誰にでも解かるのです。従って結ぶと言うことで物を作成すエネルギー生産性を意味するのです。

 其には殺伐とか残忍とかの何物も含まれない只慈悲深くて限りなき神と申す大自然の御徳(みとく)を広大無辺なるを仰ぐばかりで我等が日本はもとより全世界が永遠に発展を続ける眞理を即ち神と唱えた古代人の魂の現れです。

 此の三柱の神々を造化の三神と申し上げるのです。

http://www.kma.jp/kosino/omake/jindai1.html



参考3:
三貴子
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: ナビゲーション , 検索

三貴子(みはしらのうずのみこ)とは記紀神話 で黄泉の国 から帰ってきたイザナギ が黄泉の汚れを落としたときに最後に生まれ落ちた三柱の神々のことである。三貴神(さんきし・さんきしん)とも呼ばれる。

* アマテラス - イザナギの左目から生まれたとされる女神。太陽神。
* ツクヨミ - イザナギの右目から生まれたとされる男神(女神とする説もある)。夜を統べる月神。
* スサノオ - イザナギの鼻から生まれたとされる男神。海原の神。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E8%B2%B4%E5%AD%90
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