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2007年11月26日 (16:20)

-i→+iの意味について:三相共時様態と二元論的連続的混淆様態

差異共振性(Media Point)の発見の体験から、本件について考えたい。+i→-iはよく理解できるのであるが、-i→+iが今一つ不明瞭である。もっとも、先に、神秘主義又は身体的性向であると言ったが。
 結局、共時的三相構造(同一性ーMedia Pointー差異)が作用しているのであるが、同一性に対して、いわば、反動的に、差異が発動する。このときは、神秘主義、又は、身体的になる。しかしながら、同時に、Media Pointが作用しているのである。つまり、同一性(近代的自我、近代合理主義)と差異(神秘主義、身体性)と差異共振性(Media Point、差異共同体)が同時に作用しているが、同一性の支配下では、これらが混濁・混線している。言い換えると、連続化されているのである。ドゥルーズ&ガタリのカオスモス様態であるこの混濁・混線である連続的混淆様態とは、二元論的様態(二項対立様態)と言えよう。この二元性とは、同一性と差異との二元論(二項対立)である。だから、この二元論的様態にあるとき、第三の様態である差異共振性(Media Point)を純粋に認知できないと言えるのである。
 少し整理して簡潔に言うと、二元論的様態を固定したものが構造主義であり、そして、二元論的連続的混淆様態がポスト・モダンであるといえよう。 ドゥルーズの差異、デリダの差延がそれである。【ただし、ドゥルーズの場合、おそらく、差異共振性を二元論的連続的混淆様態に引き込んでしまっているのである。特異性である差異共振性が、不誠実にも、二元論的連続的混淆における連続的差異へと還元されているのである。ドゥルーズの知に対する犯罪的な不誠実さがあるのである。そして、デリダの場合は、超越性を否定して(『声と現象』におけるフッサール批判を参照)、単純な二元論的連続的混淆様態において、対極的ゆらぎの空疎な遊戯を行なっていたのである。】
 結局、実際においては、三相共時様態であるのに、同一性と差異との二元論が主導・支配的であるために、第三の様態の差異共振性が認識できないということであるが、この事態はとりわけ、西洋文化において、当てはまるということになる。東洋文化は、第三の様態である差異共振性を追求・探求してきたのである。ヨガにしろ、禅にしろ、そうであると言えるのである。また、神道は明らかに、第三の様態を根本・中心的神としてきたのである。大神道と言うべきである。本来は、第三の様態が第一の様態・原様態であるが。因みに、鈴木大拙の即非論とは、禅と大神道との融合と言えるかもしれない。東洋・日本文化の結晶である。(もっとも、西洋文化においても例外者がいて、第三の様態を志向した者たちがいる。例えば、ヘルダーリン、ウスペンスキー、D.H.ロレンス、他である。イタリア・ルネサンスは実は、第三の様態から発動していたと私は考えている。そう言うならば、古代ギリシアもそうであるが、父権的一元性との混淆様態である。古代ギリシアの古典主義=線型科学がそれを物語るであろう。)
 結局、私の体験では、第三の様態への飛躍のスプリングボードは、差異の不連続化にあったのである(不連続的差異論の誕生)。確かに、心において、第三の様態は存していたのではあるが、混沌とした様態(カオスモス)にあったそれを明晰に知性化することができなかったのである。それまでは、それをコスモスと呼んだり、根源的自然と呼んだりしたのである。しかし、それらは、先に述べたように、-i→+iの様態が混淆した視点なのである。それは、身体・神秘主義的連続性を帯びているだろう。シャガールの絵画空間がそうである。だから、一体性が生まれるのである。D.H.ロレンスは、「我々はコスモスと一体である」と言ったが、正にそれである。しかし、先にも述べたが、それは、差異共振性から発動していると見るべきなのである。だから、シャガールの最良の絵画には、それが表現されているのである。
 以上の検討から、本件の問題が解明されたであろう。やはり、先に述べたように、-i→+iとは、神秘主義・身体的志向性であるのであるが、「ポスト・モダン」の現代においては、それは、差異共振性=Media Pointの発動と混淆されているということである。だから、アイロニカルな没入が発現するのである。
 ここで視点を変えて、経済のことを考えると、社会主義とは、-i→+iの志向であったと言えよう。これは、全体主義に帰結するのである。+i→-iが資本主義であるとするなら、その逆の過程が社会主義であったのである。それは、身体的物質主義である。中沢新一の霊的唯物論とは、正に、これを意味するのである。思うに、ロシアにおいて、社会主義が発動したのは、ロシア文化のもつ-i→+iの神秘主義・身体的文化が原因ではないだろうか。ロシア文化は、コスモス文化である。それが、欧米文化の唯物論の影響を被り、社会主義革命が起きたと推論できるのである。(参照:ドストエフスキーの『悪霊』)
 最後に簡単に現代日本の政治経済を考えると、差異共振的自由主義=差異共振融合共同体経済(Kaisetsu氏の「市場化された場における共同体主義」)が方向性として、積極・前進的であると考えられるのである。新自由主義(自民党)と社会主義(民主党)の二元論はポスト・モダン的である。小沢一郎は、差異共振主義が根源にあると私は考えている。この差異共振主義を核として政治経済様態が発現されなくてはならない。大連立はその主要な手段であるが、悪くすると連続的混淆様態に過ぎなくなる。それは、現在の自民党や民主党の様態である。差異共振主義、差異共振共同体主義を旗幟鮮明にすべきであろう。
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