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2007年11月28日 (21:30)

検討問題:三相共振相について:メモ

この問題は、神社の三つ巴とも関係していると思っている。古事記の三柱の神々から発している問題なのであるが、三つ巴の形象が重要であると思っている。それは、ケルト紋様の三つ巴と共通であるからである。ここには、自然・宇宙の根源的な原理が形象化されていると思われるのである。そういう意味合いを含めて、本件について考察したいと思っているのである。
 問題は、-iの意味なのである。私はこれは、身体と考えていいと思っている。とにかく、そう作業仮説して検討したい。瞑想思考(直感思考)では、-iの思考とは、神秘思考ではないかと思えるのである。思うに、人類は、父権的宗教以前において、-iの神秘思考を行なっていたのではないだろうか。整理すると、父権的宗教以前、Media Pointを元神とする宗教、母権宗教があり、そこでは、+iと-iの二神が存していた。これが例えば、イザナミとイザナギの二神であろう。兄弟の神話、双子の神話はこれと関係するだろう。
 つまり、+iにおいては物質的現象を扱い、-iにおいては霊的現象を扱っていたのではないか。そして、両者を統合するものとして、Media Pointの元神(天之御中主神・天照大神)が存していたのではないか。因みに、空海の両界曼荼羅の思想は、これであろう。両界とは、Media Pointであろう。しかしながら、空海自身は明確にMedia Pointを理解していたか不明である。とまれ、空海の言葉である、五大に響きあり、の響きとは、Media Pointにおける虚エネルギーの振動と言えよう。
 思うに、+iは光であり、-iは闇ではないだろうか。白と黒と言ってもいい。闇はすべても結びつけている。そして、光はすべてを明瞭に表している。アポロとディオニュソスである。
 問題は両者が共振したときに、Media Pointが出現することである。どちらかに偏向・傾斜すれば、それは、→-1となるだろう。西欧近代とは、恐ろしい時代である。それは、+iへと傾いたのである。そして、(+i)^1→-1となったのであり、反動として、(-i)^2→-1となったのである。反動はロマン主義、神秘主義、オカルト主義である。
 今、ふと思ったが、+iが父で、-iが母ではないのか。それはそれ正しい。聖書の創世記の神霊は+iで、水が-iであろう。そう、水がポイントである。やはり、-iは闇で一体性ではないのか。言葉に困るのであるが、共感というときの一体性である。そう、原質料である。原質料的一体性である。
 とまれ、+iが火であり、光である。そして、火と水が共振して、Media Pointとなるのである。ダビデの星である。
 問題は、+iを光としたとき、Media Pointの共振による「光」はどうなるのか、である。それは、やはり、超越光であろう。そして、これは、いわば、二重光(光と闇)であるから、色の相補性が生まれるのであろう。
 ここで、三島文学について言うと、彼の神秘主義は、明らかに、-iの志向である。闇である。彼の表現では無である。これは、D.H.ロレンスの闇ないしはdark Godと同じだろう。
 さらに問題はイシスとオシリスである。そう、神話学の問題として、根源のMedia Pointと、+iと-iとが混同されることであろう。イシスは、Media Pointであるだろう。それが、オシリス(太陽)を生む。オシリスとイシスは一体であろう。つまり、イシスがMedia Pointであり、オシリスが現象の太陽だろう。これはそのまま、神道神話にもあてはまるだろう。天照大神がMedia Pointであり、日御子(天皇)が現象太陽である。
 初めの問いにもどろう。私が言いたかったのは、闇の思考があったのではないかということである。身体の思想である。しかし、この思考が中心化すると神秘主義になるのである。これが、三島由紀夫等の思想である。上記したことを訂正すると、+iは物質的ではなく、霊的であり、-iが物質的である。ただしく言えば、質料的である。
 だから、闇の思考とは、質料的思考である。質料的同一性と言ってもいいだろう。結局、霊的同一性と質料的同一性があるのである。近代主義は前者中心であり、反近代主義は後者である。とまれ、両者を光と闇と言っていいだろう。
 問題は近代において、二元論化して、Media Pointを含む三元性が喪失されたことである。同一性が霊性においても、物質性においても中心化しているのである。ポスト・モダンが差異と呼ぶものは、真正の差異というよりは、他の同一性のことであろう。
 私が言いたいのは、差異共振性=Media Pointの思考のことである。真正の差異の思考である。ここで、同一性による一体性と差異による一体性を区別しないといけないと感じている。前者は自我主導的な一体性であり、後者は共振的一体性である。自我主導となったとき、それは、-1になっているはずである。それは、+1ではない。
 共振的一体性とは、三相共振相ではないか。差異と差異が共振するのである。三つ巴であろう。私が言いたいことがじょじょに判明してきた。Media Point的共振一体性が、自我主導において、自我的一体化となるのである。少し飛躍するが、自我的同一性とは、実は、Media Pointにおける共振的一体性から発しているのではないかということである。言い換えると、Media Point自体が自我同一性へと変換しているのではないのか、ということである。
 今はざっと言うことにするが、この自我同一性ないしは自我一体性が、ハイデガーの存在や構造に当たるのではないだろうか。そして、ポスト・モダンは、この自我同一性内部における二元論的な力学に過ぎないのではないか。
 さて、三相共振相を共振的一体性と仮説して、経済のことに話を移すと、つまり、三相共振創造経済であるが、これは、共振的一体性経済と言い換えることができる。自我を包摂する自己があるが、これが他者と共振する様態の経済である。同一性の極があり、差異・他者の極があり、両者は共振的一体性を形成している。
 資本主義においては、共振的一体性が否定されて、もっぱら、同一性(自我)の極が中心化されているのである。つまり、自我同一性・一体性経済である。これは、他者破壊主義(弱肉強食)であるのは誰でもわかることである。
 それでは、共振的一体性経済は何か、ということになるのである。私は同一性は営利性であり、差異は公共性であると思う。そして、共振性は両者の調和である。だから、営利性の極と公共性の極と調和の極があるのである。そして、私見では、公共性は非営利主義にすべきであると考えるのである。つまり、営利と非営利の共振性である。
 これによって、共振的一体性経済が考えられるだろう。ただし、公共性に対して、公共投資ということをすべきではないのである。投資ではなく、事業である。公共事業である。
 今はここで留めたい。以上は試行錯誤であり、不十分である。
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