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2007年12月11日 (19:26)

ファンタジーへの視点:近代合理主義と想像世界と境界=Media:《風》を例にとって

以下、課題への参考も含む意味で、ファンタジーについてまとめるが、「風」というテーマをとりあげて、具体例を出して叙述したい。
 最初に、ファンタジーとは、近代合理主義(近代科学・技術)の世界とそれとの別の世界との《境界》における想像(心像しんぞう、心象しんしょう)の物語であるようなことを言った(小谷真理著の『ファンタジーの冒険』の中で言及されているアイデアを借用した)。
 単に、近代合理主義を無視して、「非合理主義」(空想、想像、夢、幻想、等)の世界を構築するというよりは、両者の境界に立って、「見えてくる」世界を構築したものと考えるということである。わかりやすくするために、

A:近代合理主義の世界(近代科学・技術・日常世界)
B:想像の世界(空想、不思議、幻想、神秘の世界)
C:境界の世界(両者の媒介、Mediaの世界)

としておく。
 そうすると、ファンタジーとは、Aの世界では当然ないが、また、単にBの世界でもなく、AとBの中間・媒介の世界・Mediaの世界であるCの領域にあるということになる。これは、哲学的には、Aでもあり、且つ(かつ)、Bでもあり、また、Aでもなく、Bでもない、という《即非(そくひ)》の様態(ようたい)にあると言える。極めて、不思議な世界というしかないだろう。現実かと思えば、非現実であり、また、非現実かと思えば、現実であるというような世界である。仏教で言えば、《空》の世界であろう。色即是空(しきそくぜくう)、空即是色(くうそくぜしき)。
 さて、ここで、具体的に、ファンタジー世界の重要なテーマである《風》を取り上げて、ファンタジー世界を確認していきたい。ライマン・フランク・ボームの『オズの魔法使い』やパメラ・トラヴァースの『風にのってきたメアリー・ポピンズ』において、《風》が重要な役割が果たしているのがわかる。

【日本では、宮沢賢治の『風の又三郎』、宮崎駿の『風の谷のナウシカ』、ファンタジーではないが、松尾芭蕉の『奥の細道』における「片雲の風」、その他に、はっきりと《風》のモチーフを確認できる。あるいは、風狂、風雅、風趣、風水、等の言葉にも、《風》が重要な観念として使用されている。日本・東洋の美学において、重要な概念である。もっとも、聖書の創世記において、神霊が水の上に風のように漂ったということが書かれているので、単に、東洋美学だけにとどまるものではない。四大(地水火風)の観念は東西共通である。もっとも、東洋では、それに空を加えて、五大とする。すなわち、地水火風空である。空海の「五大に(みな)響きあり」は有名である。ところで、美術で言えば、ボッチチェルリの『春』に、《風》があるだろうし、デューラーの『黙示録の四騎士』には、すさまじく荒れ狂う、狂暴な(又は凶暴な)《風》が感じられるだろう。また、シェイクスピアの『マクベス』において、マクベスの有名なせりふに、「憐れみが、生まれたての赤ん坊のように目に見えない乗り物にのって・・・」があるが、それは疾風のイメージである。また、魔女たちが大気に溶けたり、殺害されるダンカン王が、マクベス城の手前で、この空気は甘美であると言ったりするも、それなりに《風》に関係するだろう。】

 『オズの魔法使い』において、竜巻(トルネードー)がやってきて、ドロシーやトトのいる家ごと、巻き上げて、エメラルドの国(想像の世界)へと連れて行くのであり、竜巻が《風》として、近代合理主義の世界、この場合は、日常世界Aと想像の世界Bの媒介としての役割を果たしている。
 しかし、ここで大事なのは、主人公の少女のドロシーである。実は、ドロシーが想像の世界Bにあっても、日常世界Aとの中間世界、境界の世界、Media の世界に存すると言えるのである。つまり、ドロシーは、《風》(竜巻)と同じ意味合いをもっていると考えられるのである。かつて、文化人類学者の山口昌男は両義性の概念を説いたが、確かに、ドロシーの存在は両義的と言えるのであるが、しかしながら、境界的存在と言う方が明快である。また、注目すべきは、竜巻という現象のあり方である。それは、垂直に家を持ち上げて、想像の世界へと移動させるのである。この垂直性が大事だと考えられるのである。この垂直性が、超越性を意味するように考えられるのである。
 だから、境界の世界、Mediaの世界は、中間の世界だけではなく、垂直性/超越性をもった世界と考えられるのであり、想像の世界Bは垂直性/超越性の世界ではないかと考えられるのである。敷延(ふえん)すると、ファンタジーの世界とは、境界・ Mediaの世界において、水平の世界(日常の世界)から垂直の世界(超越の世界)へと飛躍し、最後は、再び、垂直の世界から水平の世界へと回帰する世界ではないかと考えられるのである。
 次に、『風にのってきたメアリー・ポピンズ』を考えると、これは、正に、今述べてきたことを典型的に表現するものではないかと考えられるのである。東の《風》とともに、メアリー・ポピンズは、桜通り17番地にやってきて、西の《風》とともに去ってゆくのである。そして、境界・Mediaである《風》と一体であるメアリー・ポピンズは、作品世界の中で、不思議な世界Bを喚起するのである。言い換えると、《風》=境界・Media=メアリー・ポピンズは、日常の世界Aと想像の世界Bの両面を融合させるということである。
 さらに、バリの『ピーター・パン』(『ピーター・パンとウェンディ』について言うと、ピーター・パンとは、空中を飛翔する存在であり、正に、《風》の存在であると言えよう。そして、その飛翔であるが、単に、水平的な移動だけではなくて、『オズの魔法使い』での境界のように、垂直的移動もあるように感じられるのである。(映画では、宇宙へと飛翔していて、垂直性が喚起されていた。)
 結局、ネバーランドとは、何かということになるのである。そこは、いわば、時間が止まった、成長が止まった、少年・少女・子供の世界である。それは、永遠の子供の世界、宗教的に言えば、永遠の世界である。だから、水平の世界を超えた、垂直/超越の世界と見ることが可能であると考えられるのである。
 ということで、『ピーター・パン』においても、《風》=境界・Media=ピーター・パンということが考えられるのである。
 
 最後に、以上のファンタジーの世界、すなわち、三相的世界であるが、これは、クロス・オーバー的にみれば、正に、神話世界に共通するのである。日本の宗教学者の折口信夫(おりくちしのぶ)が、「まれびと」という概念を立てたが、「まれびと」とは、正に、境界・Mediaの存在、《風》的存在であることがわかるだろう。また、ケルト神話と共通するが、海の彼方に想像上の島を想定するが、これは、単に水平的位置だけでなく、垂直的位置をも意味すると見るべきだろう。竜宮城というものは、海底にあるのであり、垂直的である。正しく言えば、水平世界と垂直世界との交差点としての場所をそこに確認すべきなのだろう。
 整理すると、ファンタジーの世界や神話の世界は、水平の世界とそれを超越した垂直の世界と両者の交叉(こうさ)するMediaの世界の三相世界から形成されているということになるだろう。そして、この交叉するMediaの世界が核心であると言えよう。

注:当然、Mediaの世界とは、プラトニック・シナジー理論のMedia Pointになる。

追記1:問題は、いわゆる、ハイ・ファンタジーの場合はどうなるのかである。トールキンの『指輪物語』(映画『ロード・オブ・ザ・リング』)はどうなのかである。つまり、その場合、想像の世界が、メインになり、近代合理主義・日常世界が無くなるからである。
 しかしながら、『指輪物語』を読むと、その想像の世界の外界の描写がリアリズム的になされているのがわかるのである。つまり、一見、ハイ・ファンタジーには、近代合理主義・日常世界は消えているが、その想像の世界において、近代合理主義・日常世界のリアリズムが入っているのである。

追記2:近代合理主義・日常世界では、無理があるならば、3次元世界ないしは時空四次元世界と考えるといいだろう。

追記3:ファンタジーの名作と言えば、『不思議の国のアリス』であるが、そこでは、境界=Mediaはどう表現されているだろうか。当然、主人公のアリスがそういう存在であるが、エレメントとして《風》に当たるものがあるだろうか。そう、呼んでいると、なにか狂暴な風が感じられる。白のクイーンなど。とまれ、冒頭の白うさぎが《風》に当たるかもしれない。一種エネルギーである。後でもう少し検討したい。
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