2005年10月27日 (17:21)
聖霊差異自由主義地球資本主義エポック:冷戦の終了、グローバリゼーション、新自由主義とは何か
近代主義とは何であったか。あるいは、近代西欧主義とは。ルネサンスとプロテスタンティズムの二重構造が近代主義と言えよう。持論を繰り返すが、差異が近代の震源であり、それが、最初に開花したのが、イタリア・ルネサンスである。それは、ギリシアの差異経済文化、そして、イスラムの差異経済文化を継承したものである。しかるに、西欧のプロテスタンティズムが勃興し、これが、西欧資本主義を駆動させる。即ち、ルネサンス的差異経済文化性は、いわば、無意識へと排出・隠蔽されるのである。しかし、二重構造性は保持されていると見るべきである。
簡単に言えば、ルネサンス/キリスト教の二重構造経済文化が西欧近代主義である。そして、キリスト教のもつイエス教が、連続・同一性=水平的平等性を生み、平等民主主義、近代的民主主義、社会主義、共産主義、左翼を生んだのである。そして、他方、キリスト教の一神教性・ヤハウェ教性が、自由主義経済を進展させてきたのである。しかし、これは、植民地主義、帝国主義、世界戦争という人類的災厄をもたらしたのである。結局、キリスト教、とりわけ、プロテスタンティズム、近代的キリスト教のもつ弁証法、父と子との弁証法が、世界を社会主義と資本主義に分離してきたのである。これが冷戦であり、55年体制である。しかるに、これが、周知である、89年ベルリンの壁崩壊、91年ソ連崩壊、92年以降の中国の改革開放路線の進展によって、大崩壊・大解体したのである。ビッグバン、グローバリゼーション、新自由主義の発動が起こった。
この出来事は、結局、西欧近代主義の破産・終焉を意味すると考えられる。近代主義の終焉である。それ以前に、思想領域では、フランス現代思想と呼ばれたポストモダン、ポスト構造主義が流行したが、それは、基本的には、西欧近代主義の批判的解体を志向したのであり、社会主義、共産主義の大崩壊・大解体を、ある意味で、予見したものを言えるだろう。しかしながら、史的大事件後、思想としてのポストモダン、ポスト構造主義は衰退した。これは、思想として、不徹底・未成熟であったからである。つまり、簡単に言えば、近代的合理主義の批判ではあったが、近代主義の連続主義を残存させていたからである。不徹底な近代主義批判であったからである。(不連続的差異論は、これを徹底して、絶対的な近代主義批判・解体を行なったと考えている。テーマ「不連続的差異論の誕生」のブログを参照。)
さて、グローバリズム、新自由主義というポスト近代主義とは、理論化するとどうなるだろうか。それは、不連続的差異の経済ということになるだろう。市場原理とは不連続的差異の新しい連結であり、創造的生産/消費主義である。これは、不連続的差異論から言えば、イデア界とメディア界の境界の出来事である。イデア界のデュナミスの新しい連結であるメディア界の創発・創出(エネルゲイア)である。これは、絶対的差異から発しているから、近代主義徹底的に破壊するのである。官営的連続・同一性主義に対する新自由主義の破壊主義である。
これは、キリスト教的三位一体の用語で考えると、父は資本主義、子は社会主義、官営主義、聖霊は不連続的差異主義である。そして、西欧近代主義において、聖霊=不連続的差異主義が排出・隠蔽されて、潜在・無意識化されたのである。しかし、この聖霊こそが、イデア界であり、不連続的差異であり、これが、資本主義の震源・駆動・起動源である。そして、グローバリゼーションとは、顕在的にはキリスト教の父・一神教・ヤハウェ教、プロテスタンティズムの勝利であるが、しかし、これは、子を破壊しているのある。つまり、キリスト教の崩壊・解体を意味しているのである。キリスト教において、子がなくなれば、それは、キリスト教の死である。神の死である。父の勝利とは、父の死である。これは、どういうことかと言えば、資本主義は、真実在的には、聖霊=不連続的差異によって駆動されているのであり、それが、グローバリゼーションにおいて、父の子に対する勝利となって顕在化したのである。つまり、資本主義は、近代主義の枠を解体したのである。つまり、プロテスタンティズムという仮象・仮装・仮面を突き破ったのである。地(ぢ)のルネサンスが噴出したのである。聖霊・不連続的差異が噴出したのである。換言すれば、父と子の弁証法である近代主義が破壊されたのであり、その弁証法の彼岸である聖霊が出現したのである。聖霊グローバル・エポックである。不連続的差異のグローバル・コスモス・エポックである。そう、絶対的ポスト・キリスト教=西洋文明のエポックである。そう、前古代、古代、中世がらせん的に回帰するのである。思うに、EUもそういう意味合いがあるのではないだろうか。すると、東アジアもそういうことになるだろう。東アジアに前古代、古代、中世がもどってくるのである。聖霊・グローバル・コスモス的超新時代である。
新自由主義に相応するように新社会民主主義、自由社会民主主義が発動されるだろう。グローバル・コスモス・ルネサンスのスーパー・エポックである。
簡単に言えば、ルネサンス/キリスト教の二重構造経済文化が西欧近代主義である。そして、キリスト教のもつイエス教が、連続・同一性=水平的平等性を生み、平等民主主義、近代的民主主義、社会主義、共産主義、左翼を生んだのである。そして、他方、キリスト教の一神教性・ヤハウェ教性が、自由主義経済を進展させてきたのである。しかし、これは、植民地主義、帝国主義、世界戦争という人類的災厄をもたらしたのである。結局、キリスト教、とりわけ、プロテスタンティズム、近代的キリスト教のもつ弁証法、父と子との弁証法が、世界を社会主義と資本主義に分離してきたのである。これが冷戦であり、55年体制である。しかるに、これが、周知である、89年ベルリンの壁崩壊、91年ソ連崩壊、92年以降の中国の改革開放路線の進展によって、大崩壊・大解体したのである。ビッグバン、グローバリゼーション、新自由主義の発動が起こった。
この出来事は、結局、西欧近代主義の破産・終焉を意味すると考えられる。近代主義の終焉である。それ以前に、思想領域では、フランス現代思想と呼ばれたポストモダン、ポスト構造主義が流行したが、それは、基本的には、西欧近代主義の批判的解体を志向したのであり、社会主義、共産主義の大崩壊・大解体を、ある意味で、予見したものを言えるだろう。しかしながら、史的大事件後、思想としてのポストモダン、ポスト構造主義は衰退した。これは、思想として、不徹底・未成熟であったからである。つまり、簡単に言えば、近代的合理主義の批判ではあったが、近代主義の連続主義を残存させていたからである。不徹底な近代主義批判であったからである。(不連続的差異論は、これを徹底して、絶対的な近代主義批判・解体を行なったと考えている。テーマ「不連続的差異論の誕生」のブログを参照。)
さて、グローバリズム、新自由主義というポスト近代主義とは、理論化するとどうなるだろうか。それは、不連続的差異の経済ということになるだろう。市場原理とは不連続的差異の新しい連結であり、創造的生産/消費主義である。これは、不連続的差異論から言えば、イデア界とメディア界の境界の出来事である。イデア界のデュナミスの新しい連結であるメディア界の創発・創出(エネルゲイア)である。これは、絶対的差異から発しているから、近代主義徹底的に破壊するのである。官営的連続・同一性主義に対する新自由主義の破壊主義である。
これは、キリスト教的三位一体の用語で考えると、父は資本主義、子は社会主義、官営主義、聖霊は不連続的差異主義である。そして、西欧近代主義において、聖霊=不連続的差異主義が排出・隠蔽されて、潜在・無意識化されたのである。しかし、この聖霊こそが、イデア界であり、不連続的差異であり、これが、資本主義の震源・駆動・起動源である。そして、グローバリゼーションとは、顕在的にはキリスト教の父・一神教・ヤハウェ教、プロテスタンティズムの勝利であるが、しかし、これは、子を破壊しているのある。つまり、キリスト教の崩壊・解体を意味しているのである。キリスト教において、子がなくなれば、それは、キリスト教の死である。神の死である。父の勝利とは、父の死である。これは、どういうことかと言えば、資本主義は、真実在的には、聖霊=不連続的差異によって駆動されているのであり、それが、グローバリゼーションにおいて、父の子に対する勝利となって顕在化したのである。つまり、資本主義は、近代主義の枠を解体したのである。つまり、プロテスタンティズムという仮象・仮装・仮面を突き破ったのである。地(ぢ)のルネサンスが噴出したのである。聖霊・不連続的差異が噴出したのである。換言すれば、父と子の弁証法である近代主義が破壊されたのであり、その弁証法の彼岸である聖霊が出現したのである。聖霊グローバル・エポックである。不連続的差異のグローバル・コスモス・エポックである。そう、絶対的ポスト・キリスト教=西洋文明のエポックである。そう、前古代、古代、中世がらせん的に回帰するのである。思うに、EUもそういう意味合いがあるのではないだろうか。すると、東アジアもそういうことになるだろう。東アジアに前古代、古代、中世がもどってくるのである。聖霊・グローバル・コスモス的超新時代である。
新自由主義に相応するように新社会民主主義、自由社会民主主義が発動されるだろう。グローバル・コスモス・ルネサンスのスーパー・エポックである。

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