2005年10月27日 (21:14)
近代主義の閉塞と聖霊差異性:根源的自由主義とポスト近代的資本主義
ルネサンスの差異起動に対して、宗教改革はどのように排出・隠蔽して、近代的資本主義を形成したのか。それは、反動である。この反動の構造はどうなっているのか。思うに、ここが決定的契機である。不連続的差異論から言えば、イデア界へのコンタクトが途切れたのである。三島由紀夫的に言えば、「断絃の時」である。それまで、古代宇宙論、コスモス論が持続していた。アリストテレスやネオプラトニズム的宇宙・世界観があった。これは、ある意味で連続主義である。これが崩壊したのである。コスモスの崩壊である。物質主義的近代主義が始まっている。思いつきでは、これと、宗教改革とはつながっている。唯物論的近代主義とプロテスタンティズムはパラレルだと思う。また、これは、聖書のロゴスを言葉と訳したプロテスタンティズムとパラレルだと思う。端的に言えば、イデア、聖霊が隠蔽・遮蔽されたのである。つまり、当時において、イデア界の意識が希薄になっていたのである。しかし、ルネサンスという強力なイデア界志向もあったのである。ネオプラトニズムとは、そのように見ることができる。フィレンツェのプラトン・ルネサンス(フィチーニのプラトン・アカデミー)。つまり、イデア界の駆動があり、イデア・メディア境界が賦活されていたのである。宗教改革は、カトリックという、いわば異教的キリスト教に対する、キリスト教原理主義の勃興である。この力学は何か。ここがポイントである。これは、聖書から触発された超越神信仰である。超越神とは、現象界を超えた神ということである。ここでは、内在性が否定されている。不連続的差異論からの私見では、内在性とは、ここでは、イデア・メディア境界である。これが、排出・隠蔽されているのである。これは、メディア・現象境界が強固になって、それ以前のイデア・メディア境界が衰退しているということではないだろうか。排出・隠蔽があるのだろうか。ここは実に微妙な論点である。当時、ルネサンスによって、イデア・メディア境界の賦活があった。また、一方、メディア・現象境界の強固もあった。つまり、近世とはヤヌス(両面)的である。つまり、メディア界的である。メディア界の両極性を帯びていたと言える。即ち、一方では、イデア界への志向があり、他方、現象界への志向があった。これは、絵画で言えば、ボッチチェルリに体現しているだろう。つまり、
イデア界⇔メディア界⇔現象界
という構造であったと言えよう。これが、近世の構造である。そして、イデア界⇔メディア界の賦活がルネサンスであり、メディア界⇔現象界の賦活が宗教改革であったろう。後者は、前者にどのように作用するのだろうか。後者は、連続・同一性の構造である。だから、これは、差異を排出・隠蔽するのである。差異をシャットアウトするのである。だから、正確に言えば、宗教改革とは、メディア界を否定した現象界主義である。つまり、メディア界⇔現象界は誤りであり、メディア界⇒現象界である。メディア界⇔現象界は、ルネサンスである。だから、訂正すると、
ルネサンス:イデア界⇔メディア界⇔現象界
宗教改革:イデア界⇒メディア界⇒現象界
↑←・・・・・・・・←↓
である。
つまり、宗教改革は現象界主義から不連続となったイデア界へと帰還しようという発想である。つまり、連続・同一性主義ではあるが、そこには、不連続性が残っているのである。そう、反動というよりは、残響として、イデア界があり、それが、父となっていると言えよう。そして、これが、西欧資本主義の精神構造である。アメリカ独立宣言のGod created us equal(神がわれわれを平等に創った)というのは、このことである。連続・同一性の平等主義があり、同時に、父がある。
ということで、宗教改革は、メディア界を排出・隠蔽しているのである。一方では、明確な現象界があり、他方では、イデア界の残響、名残、残照等があるのである(だから、アレゴリーではなくて、象徴主義的になるのである。)近代主義の閉塞性とは、メディア界の閉塞であったと言えようし、ルネサンスの閉塞であったのである。しかし、潜在、無意識の内に、メディア界やルネサンスは作動している。とりわけ、天才や庶民において。
とまれ、近代主義とは、現象界中心主義であり、それが、近代的二元論を創ったと言えよう。即ち、思惟と延長、精神と身体の二元論である。思惟や精神とはこの場合、言語知性である。だからこそ、ヨハネ福音書のロゴスが言葉と訳されねばならなかったのである。近代主義は、現象界主義であるから、精神は言語知性ないし言語意識となるのであり、ロゴスという理性は言葉・言語となったと言えよう。そして、このキリスト教的近代主義は、連続・同一性の平等主義を生み、これが、近代的民主主義となったし、また、資本主義への反動として、社会主義を生んだ。それは、キリスト教的近代主義からの派生である。そして、プロテスタンティズム的構造をもった近代的資本主義が発達する。これは、現象界主義(物質主義)であるが、本質的には、イデア界から駆動しているのである。つまり、自由主義の問題である。自由主義とは、思うに、プロテスタンティズム/ルネサンスという二重構造をもっているが、経済的自由主義とは、プロテスタンティズム的である。
さて、ここで問題なのが、近代的民主主義の発生である。それは、当然、経済的自由主義と関係するし、また、キリスト教的道徳と関係する。神の下の平等。隣人愛。自由は、悪からの解放等であろう。しかし、キリスト教的民主主義とは、連続・同一性の「道徳」であり、それは、差異を抑圧している。メディア界とイデア界を抑圧して、閉塞している。しかし、神はイデア界的ではないかという反論が生じるが、しかし、神は、示唆されても、イデア界ではなくて、連続・同一性の神である。キリストと一体化された神である。キリストとは、連続・同一性の神である。言葉の神である。ロゴスの神ではない。つまり、キリストは、現象界の神であるから、父も現象界的になるのである。即ち、連続・同一性=言葉の神となるのである。だから、イデア界への示唆も現象界に飲み込まれてしまうのである。これが、神の死である。つまり、近代主義とは現象界主義である。現象界中心主義である。そして、これが、現代日本の姿である。ということで、近代主義は、資本主義と連続・同一性の民主主義を生み出すことになる。そして、後者は社会主義を生むのである。つまり、資本主義と社会主義の二項対立である。これは、近代主義の分裂である。
問題は、資本主義である。自由主義の問題である。これは、近代主義ではあるが、不連続性をもっている。つまり、プロテスタンティズムの不連続性である。ここには、特異性が生じるのである。つまり、不連続的差異の垂直性がある。ルネサンスは、いわば、優等生で、垂直/水平性の均衡があった。即ち、イデア界の差異の純粋発動があったのである。だから、宗教改革はいわば、不良である。捻くれ、拗くれ、である。拗ね者である。そう、パスカルの宇宙的孤独である。とまれ、特異性があることを認めなくてはならない。そして、ここで、自由主義の資本主義と平等主義の民主主義との二律背反が生じているのである。これが、冷戦に帰結する。資本主義と社会主義の弁証法である。そう、やはり、父(特異性)と子(同一性)の対立が近代主義にはあるのである。
結局、現代、後者が敗退したのである。連続・同一性が敗退したのである。これは、西欧近代主義の崩壊を意味する。そう、冷戦崩壊以前のポスト構造主義を考えると、それはメディア界の復権であり、それは、それで、近代主義の解体を意味した。プロテスタンティズムの特異性とは絶対的エゴイズムを意味するだろう。唯一者である(シュティルナー)。ここでは、共存性はない。ただ、唯一者と唯一者の連合(同盟)があるだけである。問題は、近代主義の水平的連続・同一性(キリスト教・社会主義)が崩壊して、不連続的・絶対的エゴイズムが勝利したのであるが、しかし、この近代主義の崩壊とは、現象界主義の崩壊を意味する。ポスト構造主義はメディア界を復活させた。それは、ある意味で、ルネサンス的である。そして、近代的民主主義(社会主義的資本主義)が崩壊して、いわば、差異の水平性・共存性が発動するようになったと言えよう。結局、近代主義の現象界中心主義が解体したのであり、メディア界が復権し、また、イデア界自体が賦活されたと言えよう。問題は、ポスト構造主義において、イデア界に到達できずに、イデア/メディア境界への進展で留まったことである。新自由主義は、ある意味でイデア界に達しているのである。経済的イデア界主義に達しているのである。それに対して、社会・政治・人文学的には、遅れているのである。
もう少し、整理しよう。近代的資本主義は、マルクスが説いたように交換価値という連続・同一性に基づいていた。しかし、現代資本主義は、差異価値に基づいているのである。情報資本主義である。メディア界的資本主義である。また、これは、当然、イデア界的でもある。創造とは、イデア界から生起するのであるから。だから、現代資本主義はポスト近代的資本主義である。これが、新自由主義の意味であろう。旧資本主義、官営資本主義を否定するのである。そう、ポスト構造主義とは確かに、現代資本主義に対応しているだろう。とまれ、ポスト近代的資本主義に対して、意識、理論が、遅れているのである。未だに、近代的民主主義であるのである。つまり、連続・同一性・平等的民主主義なのである。これは、新自由主義に負けているのである。先の衆院選挙は、いわば、「理性の狡知」である。下層民が上層階層を支持したのである。上層階層は、新自由主義である。
結局、経済領域においては、ポスト近代主義が勝利したのである。即ち、差異が勝利したのである。これは、ルネサンス的である。一面的であるが。そう、既に、イデア界が啓かれているのである。ただ、意識がひどく遅れているのである。阿弥陀如来の無量光が差しているのであるが、気がつかないのである。新自由主義はイデア界に達しているのである、経済的に。後は、政治、社会、文化的に、そこへ達することが必要なだけである。つまり、近代主義において、潜在していた差異、不連続的差異、聖霊が今や開花したのであり、大地の聖霊(これは、天界の聖霊でもある)のエネルゲイアを意識し取り込む時である。これは、聖霊差異共存主義となるはずである。この差異共存主義が新自由主義と相補併存して、新しい地球文明が生起するだろう。それは、聖霊差異自由主義地球資本主義スーパー・エポックである。根源的自由主義によって、不連続的共存主義が賦活されるのである。
イデア界⇔メディア界⇔現象界
という構造であったと言えよう。これが、近世の構造である。そして、イデア界⇔メディア界の賦活がルネサンスであり、メディア界⇔現象界の賦活が宗教改革であったろう。後者は、前者にどのように作用するのだろうか。後者は、連続・同一性の構造である。だから、これは、差異を排出・隠蔽するのである。差異をシャットアウトするのである。だから、正確に言えば、宗教改革とは、メディア界を否定した現象界主義である。つまり、メディア界⇔現象界は誤りであり、メディア界⇒現象界である。メディア界⇔現象界は、ルネサンスである。だから、訂正すると、
ルネサンス:イデア界⇔メディア界⇔現象界
宗教改革:イデア界⇒メディア界⇒現象界
↑←・・・・・・・・←↓
である。
つまり、宗教改革は現象界主義から不連続となったイデア界へと帰還しようという発想である。つまり、連続・同一性主義ではあるが、そこには、不連続性が残っているのである。そう、反動というよりは、残響として、イデア界があり、それが、父となっていると言えよう。そして、これが、西欧資本主義の精神構造である。アメリカ独立宣言のGod created us equal(神がわれわれを平等に創った)というのは、このことである。連続・同一性の平等主義があり、同時に、父がある。
ということで、宗教改革は、メディア界を排出・隠蔽しているのである。一方では、明確な現象界があり、他方では、イデア界の残響、名残、残照等があるのである(だから、アレゴリーではなくて、象徴主義的になるのである。)近代主義の閉塞性とは、メディア界の閉塞であったと言えようし、ルネサンスの閉塞であったのである。しかし、潜在、無意識の内に、メディア界やルネサンスは作動している。とりわけ、天才や庶民において。
とまれ、近代主義とは、現象界中心主義であり、それが、近代的二元論を創ったと言えよう。即ち、思惟と延長、精神と身体の二元論である。思惟や精神とはこの場合、言語知性である。だからこそ、ヨハネ福音書のロゴスが言葉と訳されねばならなかったのである。近代主義は、現象界主義であるから、精神は言語知性ないし言語意識となるのであり、ロゴスという理性は言葉・言語となったと言えよう。そして、このキリスト教的近代主義は、連続・同一性の平等主義を生み、これが、近代的民主主義となったし、また、資本主義への反動として、社会主義を生んだ。それは、キリスト教的近代主義からの派生である。そして、プロテスタンティズム的構造をもった近代的資本主義が発達する。これは、現象界主義(物質主義)であるが、本質的には、イデア界から駆動しているのである。つまり、自由主義の問題である。自由主義とは、思うに、プロテスタンティズム/ルネサンスという二重構造をもっているが、経済的自由主義とは、プロテスタンティズム的である。
さて、ここで問題なのが、近代的民主主義の発生である。それは、当然、経済的自由主義と関係するし、また、キリスト教的道徳と関係する。神の下の平等。隣人愛。自由は、悪からの解放等であろう。しかし、キリスト教的民主主義とは、連続・同一性の「道徳」であり、それは、差異を抑圧している。メディア界とイデア界を抑圧して、閉塞している。しかし、神はイデア界的ではないかという反論が生じるが、しかし、神は、示唆されても、イデア界ではなくて、連続・同一性の神である。キリストと一体化された神である。キリストとは、連続・同一性の神である。言葉の神である。ロゴスの神ではない。つまり、キリストは、現象界の神であるから、父も現象界的になるのである。即ち、連続・同一性=言葉の神となるのである。だから、イデア界への示唆も現象界に飲み込まれてしまうのである。これが、神の死である。つまり、近代主義とは現象界主義である。現象界中心主義である。そして、これが、現代日本の姿である。ということで、近代主義は、資本主義と連続・同一性の民主主義を生み出すことになる。そして、後者は社会主義を生むのである。つまり、資本主義と社会主義の二項対立である。これは、近代主義の分裂である。
問題は、資本主義である。自由主義の問題である。これは、近代主義ではあるが、不連続性をもっている。つまり、プロテスタンティズムの不連続性である。ここには、特異性が生じるのである。つまり、不連続的差異の垂直性がある。ルネサンスは、いわば、優等生で、垂直/水平性の均衡があった。即ち、イデア界の差異の純粋発動があったのである。だから、宗教改革はいわば、不良である。捻くれ、拗くれ、である。拗ね者である。そう、パスカルの宇宙的孤独である。とまれ、特異性があることを認めなくてはならない。そして、ここで、自由主義の資本主義と平等主義の民主主義との二律背反が生じているのである。これが、冷戦に帰結する。資本主義と社会主義の弁証法である。そう、やはり、父(特異性)と子(同一性)の対立が近代主義にはあるのである。
結局、現代、後者が敗退したのである。連続・同一性が敗退したのである。これは、西欧近代主義の崩壊を意味する。そう、冷戦崩壊以前のポスト構造主義を考えると、それはメディア界の復権であり、それは、それで、近代主義の解体を意味した。プロテスタンティズムの特異性とは絶対的エゴイズムを意味するだろう。唯一者である(シュティルナー)。ここでは、共存性はない。ただ、唯一者と唯一者の連合(同盟)があるだけである。問題は、近代主義の水平的連続・同一性(キリスト教・社会主義)が崩壊して、不連続的・絶対的エゴイズムが勝利したのであるが、しかし、この近代主義の崩壊とは、現象界主義の崩壊を意味する。ポスト構造主義はメディア界を復活させた。それは、ある意味で、ルネサンス的である。そして、近代的民主主義(社会主義的資本主義)が崩壊して、いわば、差異の水平性・共存性が発動するようになったと言えよう。結局、近代主義の現象界中心主義が解体したのであり、メディア界が復権し、また、イデア界自体が賦活されたと言えよう。問題は、ポスト構造主義において、イデア界に到達できずに、イデア/メディア境界への進展で留まったことである。新自由主義は、ある意味でイデア界に達しているのである。経済的イデア界主義に達しているのである。それに対して、社会・政治・人文学的には、遅れているのである。
もう少し、整理しよう。近代的資本主義は、マルクスが説いたように交換価値という連続・同一性に基づいていた。しかし、現代資本主義は、差異価値に基づいているのである。情報資本主義である。メディア界的資本主義である。また、これは、当然、イデア界的でもある。創造とは、イデア界から生起するのであるから。だから、現代資本主義はポスト近代的資本主義である。これが、新自由主義の意味であろう。旧資本主義、官営資本主義を否定するのである。そう、ポスト構造主義とは確かに、現代資本主義に対応しているだろう。とまれ、ポスト近代的資本主義に対して、意識、理論が、遅れているのである。未だに、近代的民主主義であるのである。つまり、連続・同一性・平等的民主主義なのである。これは、新自由主義に負けているのである。先の衆院選挙は、いわば、「理性の狡知」である。下層民が上層階層を支持したのである。上層階層は、新自由主義である。
結局、経済領域においては、ポスト近代主義が勝利したのである。即ち、差異が勝利したのである。これは、ルネサンス的である。一面的であるが。そう、既に、イデア界が啓かれているのである。ただ、意識がひどく遅れているのである。阿弥陀如来の無量光が差しているのであるが、気がつかないのである。新自由主義はイデア界に達しているのである、経済的に。後は、政治、社会、文化的に、そこへ達することが必要なだけである。つまり、近代主義において、潜在していた差異、不連続的差異、聖霊が今や開花したのであり、大地の聖霊(これは、天界の聖霊でもある)のエネルゲイアを意識し取り込む時である。これは、聖霊差異共存主義となるはずである。この差異共存主義が新自由主義と相補併存して、新しい地球文明が生起するだろう。それは、聖霊差異自由主義地球資本主義スーパー・エポックである。根源的自由主義によって、不連続的共存主義が賦活されるのである。

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