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2008年02月04日 (19:13)

極性の両相性:共振と否定:虚軸とMedia Pointにおける共振性と実軸=現象界における否定性

太極で言えば、陰と陽の極性(対極性)がある。電磁気力で言えば、N極とS極があり、電子と陽電子がある。
 素朴な根本的な疑問であるが、電磁気力では、反対の力は引きつけ合うが、自己認識方程式における+iと-iとは、ある面では反発すると考えられるが、それはどういうことなのか。
 物質形成において、反対の力(エネルギー)は共振して、同一性=物質化する。この共振、差異共振は、反対する力の引きつけである。
 では、自我同一性の場合は、どうして、反対の力が反発するのだろうか。自己認識方程式(+i)*(-i)⇒+1から見ると、自我同一性+iと身体差異-iが反発すると思えるのである。本来、+iと-iは引きつけ合うものではないのか。この矛盾をどう考えるのかである。
 ここで、精緻に考察しよう。自己認識方程式(+i)*(-i)⇒+1の右辺の+1とは、認識に関して言えば、正確に言えば、自我同一性ではなくて、自己同一性である。端的に、「わたし」、I、ich等である。(因みに、デカルトは、これを基盤にして、コギト哲学を展開したと言えよう。また、スピノザやライプニッツは、ここから、左辺へと進展して行ったと考えられよう。これについては、後で検討したい。)
 だから、自己同一性を形成する太極の(+i)*(-i)における+iと-iであるが、前者を自我同一性、後者を身体差異と呼ぶのは、本来的ではないのである。精緻に言えば、+iは原知性・原同一性・原形相であり、-iは原身体・原差異・原質料である。(創世記で言えば、神霊と水である。つまり、火と水である。ダビデの星である。比喩的には、光と闇でいいのかもしれない。あるいは、天と地である。)
 そう考えると、右辺の+1とは、単に、自己同一性だけでなく、身体同一性でもあるだろう。この「わたし」の身体としての同一性ではないだろうか。
 とまれ、そう考えると、極性はここでも肯定される。では、自我同一性における差異の否定はどう解明されるだろうか。
 結局、自己認識方程式(+i)*(-i)⇒+1の右辺の自己同一性であるが、ここから、外界を認識するときが問題なのである。外界の他者=差異が存するのであるが、自己同一性は外界の他者=差異へ自己投影して、自己投影像を描くのである。ここにおいて、外界の他者=差異が否定・排除・隠蔽されるのである。この自己投影像における外界の他者=差異の否定を、-1と見たのであるがそれでいいのだろうか、ということになる。
 結局、外界の他者=差異認識の問題であるが、それを自己同一性は、自己投影して認識するのである。つまり、(+1)・(-1)=-1
ということではないだろうか。それとも、(+1)・[-(-1)]=+1だろうか。思うに、-1はそれなりに他者認識ではないのか。+1は、単に自己同一性認識ではないだろうか。後者の方が正しいのではないだろうか。
 とまれ、少なくとも、自己同一性=自我において、自己投影作用によって、他者=差異を否定してしまうことが確認できるだろう。そして、ここにおける極性 ±であるが、実数・実軸においては、それは、共振作用ではなくて、否定作用になると考えていいのではないだろうか。虚軸とMedia Pointにおいては、極性は共振化したが、実軸においては、極性は否定化になるということではないのか。
 この実軸=現象界における、自己同一性=自我の認識は、自己投影的であり、また、反射的ということであり、共振作用ではなくて、否定作用である。(だから、弁証法とは、実軸=現象界における思考法である。マルクスがヘーゲル弁証法を取り入れたのは、完全に間違いであったと言えよう。何故なら、資本主義とは、差異共振的価値を基盤にしているからである。資本主義は、差異共振価値を同一性価値へと還元するシステムであり、この点が乗り越えられる必要があるのである。)
 言い換えると、思うに、実軸=現象界においては、同一性の力forceが作用するのであり、その極性とは、否定作用=暴力作用を意味するということではないだろうか。エネルギーが共振エネルギーから同一性=暴力エネルギーになっているということではないのか。
 【例えば、2H2+02→2H20という水の生成を考えよう。周知のように、水素分子2個と酸素分子1個がエネルギーを与えられて、爆発して、水分子2個が生まれるのである。ここで、水素と酸素が結合するのであるが、ミクロにおいては、共振作用があるのではないだろうか。しかし、実軸=現象界においては、水素と酸素が共に否定されて、水が発生するということではないのか。言い換えると、水素が酸素に自己投影して、酸素を否定する。逆に、酸素は水素に自己投影化して、水素を否定する。この相互否定から、水が生起するということではないのか。この点は後で再検討したい。】
 以上を整理すると、Media Pointにおいて、虚軸では共振・共鳴作用がはたらくが、実軸では投影・否定作用がはたらくということになるだろう。Media Pointにおいて、共振から否定への転換・変換transformationが為されるということになる。言い換えると、「平和」から「戦争」へである。「平和共存」から「武力闘争」へである。また、当然、精神(イデア)から物質へでもある。(これは、実に、量子論的な事象であろう。これについては後で検討したい。)
 ここで、自己認識方程式(+i)*(-i)⇒+1において考えると、左辺は共振性であり、右辺が否定性を意味していると見ることができよう。つまり、⇒とは、同一性志向性であり、否定的暴力を意味すると言えよう。そして、ここで、ユダヤ・キリスト教の唯一神・超越神ヤハウェについて言うと、それは、やはり、左辺の共振性を否定した、正に、⇒+1の神であると言えよう。そう、やはり、資本主義と同型なのである。
 最後に自己同一性の自己投影におけるモデルについて考察したい。これは、実に中核的な問題である。思うに、精神分析はここに父の像をもってきて、理想自我を考えている。この問題は、精神分析を乗り越えることができる問題であると思う。
 今、直感で言うと、Media Pointの虚軸における超越的差異共振エネルギーがあるが、それが、理想を生む源泉であると思われる。これが、実軸においては、他者否定的自己投影作用によって、自己同一性のモデルを生むと考えられるのである。これは、いわば、超越的なモデルである。(そう、ヤハウェ等の父権的宗教の神はここに由来するだろう。)
 つまり、Media Pointの虚軸の超越性が実軸の否定的同一性の自己投影像に作用していると考えられるのである。そのために、自己同一性=自我は、「神的な」もの(自己中心主義)になると考えられるのである。狂気・妄想(パラノイア・モノマニア)はここから発すると考えられるのである。言い換えると、自己同一性のモデルとは、一神教の神である。これで説明が終った。
 では、多神教・自然宗教・女神宗教の場合はどうなのだろうか。はっきりしているのは、自己認識方程式(+i)*(-i)⇒+1の左辺も、ある意味で意識化されていることだと思う。一神教の場合は、⇒+1が意識化されて、左辺が無意識となるのである。しかし、多神教の場合は、左辺が生きていて、右辺とのバランスを取るように思われるのである。
 例えば、古代ギリシア宗教(ギリシア神話)で考えると、デーメーテール等の女神は左辺であり、右辺は主宰神のゼウスということになるのではないだろうか。神道で言えば、左辺が三柱の神であり、右辺が日御子(ひのみこ)=「天皇」であろう。
 そのように見ると、ポスト・ユダヤ・キリスト教西洋文明とは、左辺を取り戻すことと言えよう。新多神教東洋文明である。女神が復活するのである。天照大神が復活するのである。神々の復活である。経済的には、トランス・キャピタリズムである。差異共振トランス・キャピタル、超越資本が源泉となる新経済である。

p.s. 後で、自己同一性=自我から発する競争心について考察したい。近代的自我においては、病的な競争心になっていると考えられる。
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