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2008年02月12日 (02:06)

民主主義の平等の発生について:平等とは何か:ポスト民主主義としての差異共振政

日本国憲法を読めば、そこには、精神貴族的価値が盛り込まれているのがわかる。文化的生活とは、精神貴族的生活ということである。民主主義の価値とは、精神貴族的価値であり、それは、差異価値である。
 さて、民主主義で一番の問題は平等である。確かに、国民主権・主権在民も問題であるが、それ以上に平等が一番のポイントであると思う。
 アメリカの有名な独立宣言には、God created us equal.(神が我々を平等に造った。)がある。いわば、民権神授説である。平等神授説である。これを解明しなくてはならない。
 キリスト教的水平主義である。超越神が人知を超えた高みに存し、個々の人間を平等に愛しているということが根源にあるだろう。つまり、超越神の視線から、人間を見て、平等観が生まれていると言えるのである。そう、無限の高みから、有限の個体としての人間を見たら、平等に見えるのだろう。
 しかしながら、ここには、差異がない。平等という発想には、差異がないのである。これをどう説明するのかである。
 ここで発想・見方を変えよう。プロト・デモクラシー(原民主主義)において、Media Pointの開かれていて、差異共振エネルギーが賦活されていたとしよう。(これは、基本的には、ルネサンスと同じ心的様態であると私は思う。)
 その心的様態にあって、個人の利益を擁護する必要が生じたと考えられるのである。北米の場合は、宗主国イギリスに対する独立の必要が起こるし、フランスでは、王権に対して市民の個人の利益を守ることが目指され、啓蒙主義からフランス革命へと発展した。
 つまり、先にも述べたが、それらにおいて、差異共振エネルギーが自我同一性・近代的自我へと展開していると思われるのである。言い換えると、差異が同一性へと連続的に発現している様態である。(思うに、今日、民主主義を主張する人もこのような様態に近いと思えるのである。)
 この差異の同一性への展開であるが、それは、他者に対して、同一性を投影するのである。しかしながら、源泉には、差異共振エネルギーがあるから、その同一性像は一種共感性をもっていると考えられるのである。
 ここは、精緻に考えるべきである。差異共振エネルギーが同一性化へと作用する。ここで、他者に対して、同一性像を投影されるのである。つまり、他者は同一性として存在を与えられることになるのではないだろうか。つまり、他者の差異性を排除したところに形成される同一性像を他者はもつということではないだろうか。同一性としての他者である。だから、他者ではなくて、同一性の個体である。
 問題は、それに対する共感性である。差異共振エネルギーが連続・同一性化するのであるから、そこには、癒着的感情が生じると思われるのである。だから、正しく言えば、共感性ではなくて、同情である。同一性感情である。これは、自我同一性の感情である。共感性とは似て非なるものである。
 以上から、平等という観念は、差異共振エネルギーが連続・同一性へと展開するときに発生する観念であると考えられるのである。他者の差異を排除した同一性投影像と自我同一性感情(同情)とが結合して観念と言えるだろう。
 だから、端的に言えば、平等観念とは、近代的自我・近代合理主義と一体の観念システム(イデオロギー)であると言えよう。
 これで、解明は終わった。やはり、差異を肯定すると、差異共振性を肯定すると、民主主義も解体する必要があるのである。しかしながら、同一性を包摂した差異主義であるから、平等性は包摂することになると思えるのである。同一性平等である。同一性価値である。しかし、それは、差異共振性のための、インフラである。結局、民主主義を包摂した差異共振主義ということになるのだろう。

p.s. しかしながら、どうも、釈然としない気持ちがある。直感と、以上の結論が合致していないからである。私の直感では、差異共振性とは、差異である他者との共振であり、そこには、同一性はないからである。
 具体的に考えよう。たとえば、老人で病気で手術をしなくてはならない、弱々しい人がいるとしよう。見ているだけで、気の毒である。その老人は、同一性なのだろうか。人間という同一性はあるだろう。その同一性から、私はその老人を気の毒と思うのか。そんなはずはないだろう。病院の看護師は、老人に親身に世話をする。それは、やはり、老人を同一性と見てそうするのか。そんなはずはない。
 看護師が老人を親身に世話をするのは、老人を差異として捉えているからではないのか。もし、同一性ならば、機械である。個物である。ロボットである。もっとも、ロボットを擬人化して、扱うこともあろうが。看護師は、その他の患者に対しても、親身に世話をする。差異共振性がそこにはあると言うべきである。
 では、以上で述べた同一性を包摂した差異共振性の考え方は、どこがおかしいのだろうか。やはり、病院で考えよう。看護師は患者A、患者B、患者 C、・・・を原則として親身に看護する。患者という概念・観念は確かに同一性である。しかしながら、個々の患者は差異である。看護師にとり、患者は、差異である。
 看護師にとり、患者という同一性は基本的な前提に過ぎず、同一性における差異・特異性が重要なのである。そう、これがポイントであろう。同一性における差異・特異性の肯定である。これを民主主義の考察にも適用すればいいのだろう。
 国家内に個々の人間がいる。国民・市民である。それは、同一性である。しかし、重要なのは、同一性における差異・特異性なのである。民主主義の平等の観念の最大の問題点は、同一性における差異・特異性を見ていない点である。同一性における平等を見ているだけであり、同一性においてある差異・特異性を排除しているのである。だから、選挙において、成人男女の一人一人(同一性)に選挙権が与えられるのである。しかしながら、最近の大阪府知事でわかるように、この同一性平等が問題なのである。差異・特異性を考慮せずに、一様一律に選挙権を与えているのであるし、同様に、被選挙権を与えているのである。これは、目茶苦茶である。近代的自我・近代合理主義の最悪の部分である。
 言い換えると、仏作って魂入れずが、民主主義なのである。だから、民主主義は本来、乗り越えられるべきである。差異・特異性に即した政治を考えるべきである。
 結局、同一性を包摂した差異共振主義の観念とは、同一性という形式は前提とするが、本体は、差異であるということである。政治で言えば、個々の人間に対して、国民・市民としての形式を認めるが、それは、単に容器であって、中身は、個々の人間が満たさなくてはならないということである。つまり、民主主義とは、空の器なのである。あるいは、理念である。それは、差異価値であり、差異共振価値である。
 民主主義とは、差異価値・差異共振価値を実現するための形式・便宜に過ぎないのであって、それ自体では意味がないのである。病院における患者という言葉と同じである。大事なのは、個々の患者である。ここでは、唯名論の方が正しいのである。
 民主主義は、だから、言葉なのである。それは、実質がないのである。実質は、個々の人間が本来満たさなくてはならないものなのである。(しかしながら、一般に多数の人間は我が侭でそのような殊勝なことはしないのである。)
 結局、目指すべきは、差異共振主義なのである。差異共振主義の政治があれば、国民・市民の差異・特異性に寄与するような政治が行われるようになると言えよう。 
 民主主義は、封建制のヒエラルキーを解体し、そして、同一性平等観念を形成した。しかしながら、それは、中身がない形式主義なのである。当然、質が低下するのである。結局、近代主義である民主主義を乗り越える必然性があると言えよう。トランス・モダンとは、やはり、トランス・デモクラシーである。あるいは、ポスト民主主義である。民主主義を包摂した差異共振政ではなくて、民主主義を乗り越えた差異共振政が必然となっていると考えられるのである。
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