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2008年02月29日 (03:34)

自我とMedia Pointの関係:+1の近代的自我によるMPの否定としての-1の身体性

先に、自己認識方程式(+i)*(-i)⇒+1において、多神教力学と一神教力学を区別した。即ち、前者は、両辺が、いわば、開いているのであり、後者は、左辺が否定されて、右辺だけが開いているのである。そして、前者はエネルゲイア(活動態)であり、後者はエンテレケイア(終局態)であると言った。
 精神分析的に言えば、一神教力学は、左辺を抑圧・排除しているのである。(精神分析のいう「それ」は、物質的な性であり、精神的な性を見ていないのが根本的な欠陥であり、ユング心理学は、性を飛ばして、単に精神性へと飛躍しているのが問題である。ここでは、多神教的精神的性が問題であると思う。)
 しかし、抑圧・排除とは、実際は「実存」しているということである。プラトニック・シナジー理論で言えば、Media Pointが「実存」しているということである。(思うに、実存主義とは、Media Pointを震源とした思想であったと考えられるが、ニーチェやキルケゴールの二番煎じ・亜流であったと思われる。)
 だから、一神教力学、あるいは、近代的自我/近代合理主義力学では、この「実存」しているMedia Pointを「抑圧」しているということである。(今日、心の病が蔓延しているのは、近代的自我/近代合理主義の同一性中心主義の縛りが緩み、Media Pointの被抑圧が解除され始め、Media Pointの能動的エネルギーが発動しているためだと思われる。つまり、被抑圧の解除と抑圧の強化との齟齬が生じているために、病理状態になっていると考えられるのである。)この抑圧・被抑圧力学を自己認識方程式で見ると、どうなるだろうか。これが、本稿のテーマである。
 ⇒+1の力が、Media Pointを抑圧しているのである。それは無意識の抑圧であると考えられる。(思うに、この無意識の抑圧というのが、非合理的である。つまり、近代的自我/近代合理主義は基本的に非合理主義なのである。)抑圧されたMedia Pointとは、近代的自我から見ると-(+1)ということで、-1ではないだろうか。(そして、それがポスト・モダンになるのではないだろうか。これまで、私は、ゼロ点が、ポスト・モダンではないのかと思ってきたが、近代主義への反動として、 -1ではないだろうか。構造主義がゼロ点であろう。そして、神秘主義・オカルト主義も-1ではないだろうか。この問題はあとで検討したいが、一言言えば、近代的自我は連続性をもつので、差異も連続化させてしまうのである。ドゥルーズ哲学の場合が典型的であろう。差異=微分にしているのであるから。また、デリダ哲学の場合、差延とは、言わば、差異と同一性との未分化様態を意味すると考えられるが、それは、超越性を欠落させているので、±1の様態を意味するのではないだろうか。)
 とにかく、近代的自我(一般に自我)によるMedia Pointの遮断であるが、繰り返すが、+1によるMedia Pointの否定なのであるが、その否定されたMedia Pointは、近代的自我にどう振る舞うのだろうか。これまで、非合理衝動となると言ってきたのだが。
 端的に、Media Pointのエネルギーはどうなるのか、である。それは、否定されているために、-1になっているということでいいのではないだろうか。本来(+i)*(-i)の超越的エネルギーをもっているのであるが、それが否定されて-1ではないのか。
 そして、私が今想定しているのは、-1とは身体ではないのか、ということである。物質的身体ではなくて、内的身体のことである。先の考察に基づけば、 Media Point=魂=身体/共同体の身体のことである。つまり、-1には、Media Pointが含まれているのではないのかと思っているのである。
 以前、サマセット・モームの『月と六ペンス』における主人公(ストリックランド:ゴーギャンをモデル)の身体的霊性について述べたが、それが、ここであてはまると考えられるのである。即ち、近代的自我/近代合理主義への否定が芸術家にあり、その否定における意識には、霊性・精神性が生起しているのである。
 近代的自我/近代合理主義への否定とは、当然、内的身体性になると考えられるのである。この内的身体性が-1ではないのか、そして、そこには、差異共振性、即ち、(+i)*(-i)が内包されているのではないのか、ということである。
 ここで単純にモデル化すれば、Media Pointは-1と通じていて、+1とは切断されているということになるだろう。言い換えると、+1とはMedia Pointの間には壁が形成されているということである。つまり、+1に拠るMedia Pointの否定は、-1ということであろう。
 そうならば、問題は、-1の空間・場である。+1の空間とは、自我の空間であり、物資的身体の空間である。心身二元論の空間である。今、想定しているのは、-1の空間とは、内的身体であるということである。内的身体とは心的身体ということである。例えば、日本語で肚や「腑に落ちる」の腑であるし、英語では、heart(心臓と心)のようなものである。つまり、内臓と精神性の融合したものである。
 思うに、この内的身体=心的身体という考えは正しいだろう。何故なら、Media Pointとは、知と存在との共振性であるからである。言い換えると、心と物質的身体(厳密には、原形相と原質料)との共振性であるからである。当然、 Media Pointは内的身体=心的身体の空間に存しているのである。
 だから、近代的自我ないしは自己同一性主義によるMedia Pointの否定とは、当然、この内的身体=心的身体の否定にともなうと考えられるのである。
 問題は、この内的身体=心的身体の否定の位相である。つまり、Media Pointを内包していると考えられる内的身体=心的身体は、当然、自己意識をもつのであるが、その自己意識は自我意識そのものではない。もっとも、自己意識には、自我意識の側面は含まれてはいるが。とまれ、自己意識は内的身体=心的身体を基盤としているのであり、自身は内的身体=心的身体の先端であるということになるだろう。この先端とは端的には、頭であろう。(日本語で、心頭という言い方があるが、先端とは、この心頭の頭である。)
 結局、内的身体=心的身体と自己意識とは当然、連続的である。そして、自己意識の先端にある自我意識(自己同一性意識)が、近代化して、近代的自我/近代合理主義を形成する。それは、当然、Media Pointを内包する内的身体=心的身体を否定するものである。
 そして、近代主義を乗り越える試みである脱近代主義は、当然、この否定されたMedia Pointを内包する内的身体=心的身体を復活させるのである。
 脱近代主義は、この内的身体=心的身体(差異)を肯定し、近代的自我/近代合理主義(同一性)をするのであるが、最高に核心的問題は、自我意識と内的身体=心的身体の自己意識とは、連続態であることなのである。だから、意識が差異へと回帰しても、それは、同一性(自我意識)との連続性を保持・維持したままなのである。つまり、意識は、連続性をもって、内的身体=心的身体(自己意識=差異)に接するということである。だから、内的身体=心的身体に内包されているMedia Pointを連続性の視点から見てしまうという結果にほとんどなるのである。とりわけ、同一性中心主義(ロゴス中心主義)が支配的な西洋文化においては、そうであると考えられるのである。
 言い換えると、内的身体=心的身体-1が差異共振性である(+i)*(-i)を内包していることを認識できないのである。
 ここで、ポスト・モダン哲学について述べるが適切である。ドゥルーズ哲学の場合は、差異共振性を-1へと同化吸収させてしまい。差異=微分にしたのである。即ち、-1という差異と+1という連続同一性とを結合したのである。それに対して、デリダ哲学の場合は、-1における差延=痕跡を問題にして、+1の連続同一性との区別と両者の混淆性を指摘したように考えられるのである。つまり、差異共振性の痕跡のみを差延として取りあげて、差異共振性自体は否定しているのである。
 ということで、以上から、-1がもつ意味を考察した。結局、-1とは、自己同一性主義(近代的自我/近代合理主義)による、Media Pointを内包する内的身体=心的身体の否定を意味するのであり、それは、正に豊饒な空間を意味するのである。私が以前述べた身体的霊性をもつ空間と言えるのである。(オカルティズムは、それを同一性から逆に捉えて、霊にしてしまっているのである。倒錯である。)
 そして、この身体的霊性が、鈴木大拙が『日本的霊性』で指摘した日本の宗教性・精神性の核であると考えられるのである。そう、言い換えると、「大地」である。精神の大地である。(例えば、円空の彫刻には、この身体的霊性の野生のエネルギーが表現されているだろう。思うに、仏像は本来そういう意味をもっていたのではないだろうか。)
 さらに言うと、ポピュラー音楽のもつ大地の血とは、正に、この身体的霊性の生命であると言えよう。思うに、クラシック音楽も元々はこの身体的霊性から発しているのであるが、そのエネルギーを喪失して、洗練されたものになってしまっている。原初のエネルゲイアである身体的霊性を喪失しているのである。また、現代の美術もそういう傾向があるだろう。(「モダン・アート」とは、本来、そのような方向性をもっていたのであるが、モダニズムによって、同一性=構造へと還元された。例えば、モンドリアンやマレーヴィチらのように)。
 ここでついでながら言うと、地霊という観念であるが、それは、正に、土地という身体がもつMedia Pointのエネルギー=超越的波動であろう。龍脈という観念もほぼ同様であろう。
 最後に、身体的現象学を説いたメルロ=ポンティであるが、彼の言う身体とは、内的身体=心的身体と外的身体=物質的身体との連続性における身体であると考えられるのである。だから、それは、ポスト・モダン哲学の先駆であると考えられるのである。
 ポスト・モダンはハイデガーやメルロ=ポンティが元祖であり、トランス・モダンはニーチェやフッサールが元祖であると考えられる。また、ロシアのウスペンスキーがトランス・モダンをそこに含めることができる。彼の思想は、鈴木大拙が大乗仏教・禅の思想から取りだした即非の論理に通じるものであるが、即非の論理ほど明晰化されてはいない。日本では、トランス・モダンの原点は鈴木大拙であるが、絶対矛盾的自己同一の思想の西田幾多郎や偶然性の論理の九鬼周造にも確認できよう。
 最後に、仏教・大乗仏教について、本件の視点から言うと、それは、原トランス・モダン思想と言うべきである。空の論理は明らかに、Media Pointのもつ差異(差異共振性)・即非・同一性とを説いていると考えられるのである。
 問題は日本の仏教界である。この仏教のもつ哲学的叡知を喪失して、仏教が否定する世俗主義にどっぷり染まっていることである。つまり、反仏教としての日本仏教界である。有り体には、葬式仏教である。仏教は死んだら仏になることを説いているだろうか。そんなことは説いていないのである。『金剛般若経』的に言えば、死んだら仏にはならないのである。だから、仏になるのである。この仏・即非・非仏を理解していないのである。仏とは、ある意識のことである。 Media Pointの意識である。それは、形而上学ではなく、理論的かつ実践的なものである。実践理性としての仏である。
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