2005年10月29日 (18:07)
プロテスタンティズムと聖霊の関係:ポストモダン・不連続的差異自由主義イデア界原点革命
問題は、イエス教の意味である。神の下の平等の問題でもある。これは、確かに、キリスト教原理である。ヤハウェとイエスの合体である。しかし、ロゴスを言葉と訳したため、イデア界が喪失されて、現象界中心となった。これは、近代的二元論と相応するだろう。思惟(精神)と延長(物質)の二元論である。ここから、フッサールが批判する物理学的客観主義が生まれた。近代的合理主義である。
結局、聖霊が意識的には、喪失されたと言えるが、潜在的には、聖霊は存していた。つまり、ルネサンスがプロテスタンティズムに潜在していた。やはり、分裂症としての西欧近代主義である。宗教改革/ルネサンスの二重構造をもつ西欧近代主義である。つまり、イデア界と現象界の分裂である。メディア界を喪失しているとも言える。
近代的資本主義は、二元論的資本主義であり、聖霊を喪失している。しかし、民主主義が勃興する。それは、実は、イデア界が作用しているからである。しかし、これは、イデア界自体としては理解されずに、現象界的「理性」として理解される。啓蒙思想・フランス革命。つまり、近代的合理主義の枠で、民主主義が創出された。これは、また、キリスト教の平等主義と見合うものである。それは、連続・同一性的平等主義である。「汝自身の如く隣人を愛せよ」 これは、差異の否定である。そして、近代的資本主義に対抗して、社会主義思想・運動が生まれる。これも、結局、近代主義的連続・同一性主義である。つまり、生産の政治的統制を意味するのである。計画経済である。ここにも、差異がない。そして、近代は、近代的資本主義と近代的社会主義に分離して、冷戦に帰結する。しかし、既述のように、資本主義は、ルネサンス、聖霊、差異を内在しているのである。つまり、資本主義自体、ポスト近代主義なのである。つまり、自由主義である。これが、社会主義と決定的に異なる点である。まとめると、近代的資本主義は、キリスト教化された差異自由主義である。イデア界/現象界の分裂症的資本主義である。差異/同一性分裂症的資本主義である。問題は、イデア界の力が、近代主義の枠に閉塞されることである。差異自由主義が、連続・同一性的合理主義のフレームに閉じ込められることである。ここで、キリスト教の用語である三位一体の用語を用いると、近代主義とは、父と子の合体である。一神教と神的平等主義。そして、一神教性は、戦闘・戦争・破壊主義となった。この父と子の合体に対して、無意識の聖霊・差異が作動するのである。これは、差異自由主義であるが、これが、父・子の近代主義をまとうのでる。つまり、差異自由主義が父・子・近代主義化されるのである。これが、植民地主義、帝国主義、世界大戦を生んだと言えよう。【また、社会主義国家の誕生に対応して、国家資本主義・社会主義性を、近代資本主義は取り入れた(ケインズ主義)。】
この抑圧構造を近代的資本主義はもっていた。つまり、
1.差異自由主義(聖霊)/⇔/2.戦闘的経済自由主義(父)/3.連続的民主主義(子)
の三重構造である。(/⇔/は、抑圧構造の意味である。)
そして、3において、社会主義化したのである。これが、冷戦的資本主義である。しかし、冷戦の終了によって、社会主義が否定され、グローバリゼーションが発動し、新自由主義革命が起こる。これは、社会主義化した3の否定である。小さな政府はそのような意味をもつ。しかし、市場原理主義とは、これは、1の原理である。これは、2の側面をもっているので、極めて破壊的になってはいる。しかしながら、3を否定したので、キリスト教原理は崩壊する。それは、父と子の結合である近代主義の崩壊である。ポスト構造主義、ポストモダニズムは、理論的に近代主義の崩壊を準備したと言えよう。フランス革命を準備した啓蒙思想の位置に相当するとも言えるだろう。すると、近代主義の崩壊によって、実は、根源的な力が発動するようになる。つまり、1の差異自由主義が賦活されるのである。イデア界の力が躍動するようになると言えよう。そう、ネオコンとは、父の側面だろう。しかし、近代主義が崩壊したので、父も解体するのである。子が崩壊しても、父が残ることはありえない。なぜならば、父と子は近代主義において一体だからである。父とは近代的合理主義である。近代的自我主義である。結局、近代主義の終焉である。ポスト近代主義の噴火である。この震源は、差異自由主義・聖霊・イデア界自体である。そして、新自由主義は、その経済的発現である。ただし、国家の枠があるから、権力的で破壊的である。(国家とは何かの問題があるが、後で検討。)
結局、現代は、ポスト近代主義「革命」(相転移)の新時代であり、近代主義がすべて否定・破壊されるエポックである。思うに、政治・経済の方が、ポスト近代主義を牽引しているのであるが、いまだ、近代主義に染まっている知識人・文化人・国民は、新自由主義をただ否定的に捉えることしかできない。今や、新自由主義は、社会・文化・生活においても発動されなくてはならないのである。それは、不連続的差異共存・共立・共生社会体の構築であろう。不連続的差異共存的民主主義の新構築であろう。
不連続的差異革命である。イデア界という原点革命である。
結局、聖霊が意識的には、喪失されたと言えるが、潜在的には、聖霊は存していた。つまり、ルネサンスがプロテスタンティズムに潜在していた。やはり、分裂症としての西欧近代主義である。宗教改革/ルネサンスの二重構造をもつ西欧近代主義である。つまり、イデア界と現象界の分裂である。メディア界を喪失しているとも言える。
近代的資本主義は、二元論的資本主義であり、聖霊を喪失している。しかし、民主主義が勃興する。それは、実は、イデア界が作用しているからである。しかし、これは、イデア界自体としては理解されずに、現象界的「理性」として理解される。啓蒙思想・フランス革命。つまり、近代的合理主義の枠で、民主主義が創出された。これは、また、キリスト教の平等主義と見合うものである。それは、連続・同一性的平等主義である。「汝自身の如く隣人を愛せよ」 これは、差異の否定である。そして、近代的資本主義に対抗して、社会主義思想・運動が生まれる。これも、結局、近代主義的連続・同一性主義である。つまり、生産の政治的統制を意味するのである。計画経済である。ここにも、差異がない。そして、近代は、近代的資本主義と近代的社会主義に分離して、冷戦に帰結する。しかし、既述のように、資本主義は、ルネサンス、聖霊、差異を内在しているのである。つまり、資本主義自体、ポスト近代主義なのである。つまり、自由主義である。これが、社会主義と決定的に異なる点である。まとめると、近代的資本主義は、キリスト教化された差異自由主義である。イデア界/現象界の分裂症的資本主義である。差異/同一性分裂症的資本主義である。問題は、イデア界の力が、近代主義の枠に閉塞されることである。差異自由主義が、連続・同一性的合理主義のフレームに閉じ込められることである。ここで、キリスト教の用語である三位一体の用語を用いると、近代主義とは、父と子の合体である。一神教と神的平等主義。そして、一神教性は、戦闘・戦争・破壊主義となった。この父と子の合体に対して、無意識の聖霊・差異が作動するのである。これは、差異自由主義であるが、これが、父・子の近代主義をまとうのでる。つまり、差異自由主義が父・子・近代主義化されるのである。これが、植民地主義、帝国主義、世界大戦を生んだと言えよう。【また、社会主義国家の誕生に対応して、国家資本主義・社会主義性を、近代資本主義は取り入れた(ケインズ主義)。】
この抑圧構造を近代的資本主義はもっていた。つまり、
1.差異自由主義(聖霊)/⇔/2.戦闘的経済自由主義(父)/3.連続的民主主義(子)
の三重構造である。(/⇔/は、抑圧構造の意味である。)
そして、3において、社会主義化したのである。これが、冷戦的資本主義である。しかし、冷戦の終了によって、社会主義が否定され、グローバリゼーションが発動し、新自由主義革命が起こる。これは、社会主義化した3の否定である。小さな政府はそのような意味をもつ。しかし、市場原理主義とは、これは、1の原理である。これは、2の側面をもっているので、極めて破壊的になってはいる。しかしながら、3を否定したので、キリスト教原理は崩壊する。それは、父と子の結合である近代主義の崩壊である。ポスト構造主義、ポストモダニズムは、理論的に近代主義の崩壊を準備したと言えよう。フランス革命を準備した啓蒙思想の位置に相当するとも言えるだろう。すると、近代主義の崩壊によって、実は、根源的な力が発動するようになる。つまり、1の差異自由主義が賦活されるのである。イデア界の力が躍動するようになると言えよう。そう、ネオコンとは、父の側面だろう。しかし、近代主義が崩壊したので、父も解体するのである。子が崩壊しても、父が残ることはありえない。なぜならば、父と子は近代主義において一体だからである。父とは近代的合理主義である。近代的自我主義である。結局、近代主義の終焉である。ポスト近代主義の噴火である。この震源は、差異自由主義・聖霊・イデア界自体である。そして、新自由主義は、その経済的発現である。ただし、国家の枠があるから、権力的で破壊的である。(国家とは何かの問題があるが、後で検討。)
結局、現代は、ポスト近代主義「革命」(相転移)の新時代であり、近代主義がすべて否定・破壊されるエポックである。思うに、政治・経済の方が、ポスト近代主義を牽引しているのであるが、いまだ、近代主義に染まっている知識人・文化人・国民は、新自由主義をただ否定的に捉えることしかできない。今や、新自由主義は、社会・文化・生活においても発動されなくてはならないのである。それは、不連続的差異共存・共立・共生社会体の構築であろう。不連続的差異共存的民主主義の新構築であろう。
不連続的差異革命である。イデア界という原点革命である。

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