2008年03月26日 (18:26)
同一性鏡像について:Media Point の二元性(二重性)と同一性志向性の一元性(二項対立性)
同一性志向性が自己同一性・自我を形成する契機となる鏡像については、これまで何度か述べてきた。しかしながら、まだ、厳密さが足りないと感じられるので、ここで検討したい。
思考実験的に、かなり以前に使用した図式を使いたい。それは、差異1・同一性・差異2というものである。これは、差異1が差異2を認識するときに、同一性を発生させて、差異2を同一性として認識することを表わしている。基本的には、差異1⇒差異2であるが、この⇒を認識衝動とすると、この⇒の結果が同一性ということである。
この同一性認識衝動(同一性志向性)であるが、差異1は差異2(他者)に対して、その差異2自体を認識せずに、同一性を投影して、同一性として、差異2を認識するのである。この同一性が一種の鏡像であると言えよう。
いったいこれはどこから発生したのだろうか。ラカンは鏡像段階を考えているが、果たして、物質的な鏡を介して、鏡像である同一性像を形成するのだろうか。
私は先に、差異のスクリーンに同一性像を形成する、ないしは、投影すると言ったが、この考え方は、鏡のような外的・物質的なものによる同一性像の形成以前に、内的な、心的な同一性像が形成されるというものである。
つまり、こういうことである。原点にMedia Point があるが、ここから同一性志向性は、差異を抑圧否定して、同一性を外界に投影するようになるのである。この内的な、差異の抑圧否定において、同一性志向性は差異のスクリーンに同一性を押し付けているのである(いわば、押印である)。
このメカニズムを考察しよう。先ず確認しておくべきことは、Media Point において、第一に、同一性志向性が発動するということである。これは、当然、差異(差異身体)を抑圧否定する志向性である。だから、Media Point に存する同一性志向性は、Media Point において存する差異を抑圧否定する際、差異に同一性を「押印」すると考えられるのである。このとき、差異がスクリーンであり、それに同一性像(同一性影像)が投影されると考えられるのである。そう、だから、投影とは「押印」・押し付けなのである。そして、このときの同一性像が、思うに、力のある同一性像であり、これによって、外的対象・外的差異に対して、(内的な)同一性を投影・「押印」するのである。
思うに、内的差異に対する圧力(内圧)が同時に、外的差異に対する圧力(外圧)になるのであるが、この同一性志向性の衝動・発動・駆動であるが、これが、端的に自己同一性=自我衝動と言えるだろう。おそらく、意志と言ってもいいだろう。そして、これが、父権的衝動と言っていいだろう。言い換えると、同一性志向性=同一性衝動=自己同一性・自我衝動=意志=父権的衝動となる。【それに対して、母権的衝動とは、同一性衝動を牽制する意志であろう。つまり、差異志向性ないしは差異共振的志向性である。思うに、本来、人間において、同一性志向性と差異志向性の両極性があるのであり、このバランスが社会共同体・生活世界を保持してきたのではないだろうか。母権社会においては、差異志向性の方が、同一性志向性よりは、優勢であったと思われる。】
簡単にまとめると、Media Point における内的差異のスクリーンに投影・「押印」される同一性像が内的な同一性像となり、それが外的対象・外的差異へと投影されて同一性認識が形成されて、自己同一性=自我が形成されるということになり、本稿のテーマであるどういう性鏡像であるが、それは、差異のスクリーンに投影される同一性影像がそれであるということになる。
最後に以上の視点から、ラカンの鏡像段階を考えると、それは、原初の内的な同一性鏡像ではなく、外的な同一性鏡像を自己同一性=自我形成の契機としていることで、見方が転倒していると考えられる。外的な同一性鏡像とは、内的な同一性鏡像の投影像であり、第二義的であると考えられるのである。言い換えると、ラカンは内的鏡面を無視(正に、疎外)して、外的鏡面を媒介にしているのである。この結果は、外的感覚の中心化であり、内的感覚(内観)、言い換えると、感性(魂感覚・精神的感覚・心感)の喪失があると考えられる。つまり、精神分析は精神の分析ではなく、物質的心性分析になっているということになろう。
思考実験的に、かなり以前に使用した図式を使いたい。それは、差異1・同一性・差異2というものである。これは、差異1が差異2を認識するときに、同一性を発生させて、差異2を同一性として認識することを表わしている。基本的には、差異1⇒差異2であるが、この⇒を認識衝動とすると、この⇒の結果が同一性ということである。
この同一性認識衝動(同一性志向性)であるが、差異1は差異2(他者)に対して、その差異2自体を認識せずに、同一性を投影して、同一性として、差異2を認識するのである。この同一性が一種の鏡像であると言えよう。
いったいこれはどこから発生したのだろうか。ラカンは鏡像段階を考えているが、果たして、物質的な鏡を介して、鏡像である同一性像を形成するのだろうか。
私は先に、差異のスクリーンに同一性像を形成する、ないしは、投影すると言ったが、この考え方は、鏡のような外的・物質的なものによる同一性像の形成以前に、内的な、心的な同一性像が形成されるというものである。
つまり、こういうことである。原点にMedia Point があるが、ここから同一性志向性は、差異を抑圧否定して、同一性を外界に投影するようになるのである。この内的な、差異の抑圧否定において、同一性志向性は差異のスクリーンに同一性を押し付けているのである(いわば、押印である)。
このメカニズムを考察しよう。先ず確認しておくべきことは、Media Point において、第一に、同一性志向性が発動するということである。これは、当然、差異(差異身体)を抑圧否定する志向性である。だから、Media Point に存する同一性志向性は、Media Point において存する差異を抑圧否定する際、差異に同一性を「押印」すると考えられるのである。このとき、差異がスクリーンであり、それに同一性像(同一性影像)が投影されると考えられるのである。そう、だから、投影とは「押印」・押し付けなのである。そして、このときの同一性像が、思うに、力のある同一性像であり、これによって、外的対象・外的差異に対して、(内的な)同一性を投影・「押印」するのである。
思うに、内的差異に対する圧力(内圧)が同時に、外的差異に対する圧力(外圧)になるのであるが、この同一性志向性の衝動・発動・駆動であるが、これが、端的に自己同一性=自我衝動と言えるだろう。おそらく、意志と言ってもいいだろう。そして、これが、父権的衝動と言っていいだろう。言い換えると、同一性志向性=同一性衝動=自己同一性・自我衝動=意志=父権的衝動となる。【それに対して、母権的衝動とは、同一性衝動を牽制する意志であろう。つまり、差異志向性ないしは差異共振的志向性である。思うに、本来、人間において、同一性志向性と差異志向性の両極性があるのであり、このバランスが社会共同体・生活世界を保持してきたのではないだろうか。母権社会においては、差異志向性の方が、同一性志向性よりは、優勢であったと思われる。】
簡単にまとめると、Media Point における内的差異のスクリーンに投影・「押印」される同一性像が内的な同一性像となり、それが外的対象・外的差異へと投影されて同一性認識が形成されて、自己同一性=自我が形成されるということになり、本稿のテーマであるどういう性鏡像であるが、それは、差異のスクリーンに投影される同一性影像がそれであるということになる。
最後に以上の視点から、ラカンの鏡像段階を考えると、それは、原初の内的な同一性鏡像ではなく、外的な同一性鏡像を自己同一性=自我形成の契機としていることで、見方が転倒していると考えられる。外的な同一性鏡像とは、内的な同一性鏡像の投影像であり、第二義的であると考えられるのである。言い換えると、ラカンは内的鏡面を無視(正に、疎外)して、外的鏡面を媒介にしているのである。この結果は、外的感覚の中心化であり、内的感覚(内観)、言い換えると、感性(魂感覚・精神的感覚・心感)の喪失があると考えられる。つまり、精神分析は精神の分析ではなく、物質的心性分析になっているということになろう。

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