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2008年05月18日 (17:01)

物質とは何か:現象について:自己認識方程式と同一性-1の再確認

爽やかそよ風が窓から入ってきて、やや薄い雲がかかっているが、穏やかな晴天の東京である。
 さて、先に、ヴィクトル・シャウベルガーの自然理論からPS理論に関して、説明が修正されることになったが、まだ、不十分なので、再考したい。±1が現象における極性となったので(この点も確定したわけではないので、さらに検討が必要ではある)、これまで、物質を-1と捉えてきたことに対する大きな変更であり、十分な検討が必要である。
 結局、差異の問題がここにある。差異の共鳴、これは、本質では、(+i)*(-i)と表記される。例えば、+iが一つの差異であり、-iが他者ないしは他者としての差異である。差異+iは、他者-iを志向する。これを引きつけられる力と見ていいだろう。しかし、同時に、差異+iは、他者-iではありえない自己存在を固持する。他者-iであろうと志向しつつ、自己であることを固持するのが、差異+iである。
 そして、この差異の様態が極性であると考えることができたのである。また、これは、PS理論では、即非様相と見ているのである。
 差異のこの内在的即非志向性は、(+i)*(-i)で表現されるだろう。問題は、現象様態である。他者-iへの志向性は、言い換えると、共振・共鳴性である。引きあう力である。これを、先には、+1として考えたのである。しかし、正確に言うと、⇒+1である。他者への志向性であり、他者との一致ではないのである。だから、そう考えると、差異の独立性、ないしは、不連続性は、⇒+1においても、内包されていることになるだろう。⇒が決定的なポイントである。これは、即非記号、他者志向性記号と言ってもいいだろう。
 そうならば、⇒-1はどうなるのだろうか。先には、それは、差異の独立性に基づく反発・斥力を意味すると述べたのである。⇒+1を引きあう力(吸引力)とすると、それは、同時に、反発する力(斥力)になるだろう。だから、⇒-1を斥力と見る必要はなくなるのである。
 だから、端的に、自己認識方程式は、差異現象方程式と見てもいいのである。だから、±1ではなく、+1で済むのである。この点は、さらなる訂正であり、元に戻ったのである。
 では、新たに、物質とは何か、又、⇒-1とは何か、となるだろう。直感で言えば、物質とは、+1自体である。差異志向性の帰結・エンテレケイアである。そう、同一性も+1ということになるだろう。自我も+1である。ならば、⇒-1ないしは-1とは何だろうか(e^iπ=-1と関係するのか)。
 -1とは、これまでの考え方では、(+i)*-(-i)⇒-1ということから考えられたのであり、これは、他者の否定・抑圧・排除によって発生すると考えたのである。差異志向性においては、他者への志向性と同時に、差異自体であるという事象があるのであり、後者の差異自体であるという不連続性は、確かに、一種の他者の否定ではあるが、-1を生み出す、否定・抑圧・排除ではない。
 つまり、ここには、少なくとも二つの否定があるのである。差異志向性の否定は、いわば、相対的否定であり、同一性の否定は絶対的否定である。この点をどう明確化するのかが、一つのポイントである。
 思うに、差異自体ということは、本来、他者を否定していないのである。ただ、他者とは別に差異自体が存するということである。しかしながら、差異は他者とは対立しているのである。ここで、ある人の意見を借りて、差異と他者の関係を反対と捉えると明快になるかもしれない。AとBとは反対であるとは、確かに、AとBは対立するが、AはBを排除していないのである。だから、これは、端的に、対極性と呼ぶのが、明快・明晰ではないだろうか。
 Aの極はBの極とは対立しているが、A極はB極を排除はしていない。ここで、否定という用語の問題がある。対極的否定と排除的否定があるだろう。私が同一性における否定に見るのは、当然、後者である。
 ここで整理すると、差異志向性は、自己認識方程式(+i)*(-i)⇒+1で必要十分に表現されている。左辺は差異志向性であり、差異対極性と言っていいものである。そして、⇒は即非性を意味するのである。
 そして、同一性を意味する⇒-1ないしは-1であるが、それは、他者の排除的否定と、他者の排除的肯定(自己差異を排除的に否定する)に拠ると考えられる。他者の排除的否定を考えると、それは、どういう条件・事態・前提から発生するのだろうか。
 これまでの考えは、ルサンチマンから発生するということであり、他者-iにおける苦・悲に対するルサンチマンから他者の排除が生起すると考えたのである。これは、先天的な、ないしは、男性的な傾斜・勾配によると考えられる。即ち、(+i)*(-i)という差異志向性・差異共鳴性・差異対極性に関していうと、先天的に、ないしは、男性において、+iに対して、-iが脆弱にできているのである。即ち、過剰な+iに対して、-iが脆弱なのである。+iを原知とすると、-iが原身体である。このような先天的傾斜ないしは男性的傾斜があると考えられるのである。
 この結果、出生後、幼児において、ルサンチマンから他者を排除的に否定する結果、-1の同一性が発生すると考えられるのである。本来、差異共鳴性があるが、そのような傾斜から同一性の-1が発生すると思われるのである。
 言い換えると、人間の精神において、差異志向性と同一性志向性の二つの傾向が混淆しているのであり、先行しているのは、前者であるが、父権主義においては、後者が優位となり、本来的な様相が劣位となる倒錯した状態になっていると言えるのである。
 文化史的に見ると、ユダヤ・キリスト教的一神教が、同一性志向性に貫かれていると考えられる。もっとも、イエス・キリストの教えには、差異志向性は含まれるが、ヤハウェ的一神教のために、それがきわめて抑圧されていると考えられるのである。
 まだ、近代合理主義・近代的自我であるが、これは、父権的な同一性主義の延長にあると考えられるのである。同一性としての合理性・物質性・自己を中心価値においているのである。端的に言えば、差異志向性を抑圧した同一性合理主義である。これが、近代欧米の世界観の基盤にあるものと考えられるのである。ただし、何度も言うが、ルネサンス(正しくは、中世)に根差した差異志向性が欧米人の無意識には存すると言える。言い換えると、差異と同一性の混同が欧米人の精神には存しているのである。以上のように考えると、端的に、元に戻ったことになる。
 さて、最後に、光の現象について考察したい。以上の検討から、光現象は、当然、⇒+1である。それを+1と見るのが、物質科学である。⇒+1とは、光をエネルギー現象と見るのであり、+1とは物質現象と見るのである。今日、電磁波ということで、エネルギー現象として正しく確認されている。
 問題は、光の知覚にある。光の視覚はできるのか、という問題もある。太陽を直視することはできない。つまり、光は直視できないと思う。光が反射したものを視覚することができるのだと思う。これが一点である。思うに、光は、⇒+1であり、この左辺が超越的であり、それで、直視できないということなのではないだろうか。
 では、光の反射した現象をどう知覚するのだろうか。ここでは直感で言おう。視覚は、反射した光(以下、単純に光と表記する)と共振・共鳴すると思う。これは、自己認識方程式でも表記できるし、また、Media Resonance(メディア共鳴)でも表記できると思われる。
 問題は、例えば、「わたし」が、遠くに位置するビルを見たとき、そのビルの視覚とは何か、ということである。思うに、無意識の背景、基礎として、差異共振(差異共鳴)が存していると考えられるが、現象としては、個体・個物としてのビルを視覚するのである。即ち、同一性としてのビルを視覚するのである。三次元空間ないしは四次元時空間におけるビルとして視覚するのである。
 同一性としてのビルとはどう数理(数知)化されるのか。+1なのか、-1なのか。同一性主義の視覚ならば、-1としてのビルとなるだろう。そして、差異志向性における視覚ならば、+1としてのビルではないだろうか。しかしながら、+1の視覚とは、仮象に過ぎないだろう。⇒+1と見たときに、現象となると言えるのではないだろうか。⇒+1においては、差異共振(共鳴)性が存するのであり、こちらが本来的であると考えられるのである。+1とは、同一性仮象(同一性シミュラクル)である。
 では、-1のビルとは何なのだろうか。+1のそれとどう異なるのか。同一性仮象と同一性主義との違いということになるだろう。思うに、それは、知覚の相違ではないだろうか。同一性仮象+1とは純粋視覚の現象であり、同一性主義-1とは視覚現象の言語化ではないだろうか。つまり、視覚する対象はビルという言語が適用されるものであり、言語視覚としてのビルということではないだろうか。
 だから、ある意味で、+1と-1は似ているのである。しかしながら、カントは、+1を直観ないしは物自体、-1を純粋理性としたのではないだろうか。言い換えると、+1はリアリズム(写実主義)である。そして、-1は、近代合理主義である。
 さらに展開すると、ロマン主義はどうなるのだろうか。それは、同一性主義・近代合理主義によって否定された-iの復権を意味するのではないだろうか。少なくとも、それは、差異共振(共鳴)性を取り戻す志向性をもっていたと言えよう。同一性主義の(+i)*-(-i)に対して、(+i)*-〔-(-i)〕ではないだろうか。排除された他者-iを肯定する行為ではないだろうか。しかしながら、逆に言うと、他者の強調が過剰となり、逆に、自己の差異である+i を否定する傾斜さえもったのではないだろうか。すると、-(+i)*(-i)⇒-1となったように思えるのである。だから、反動性ももっていたことになるのである。他者を強調するあまり、逆に同一性主義に陥ったと考えられるのである。
 とまれ、少なくとも、ロマン主義において、差異共振性が生動化したことは画期的であったことを評価すべきであろう。精神的には、歓喜が発現したのである(参照:シラー/ベートーヴェンの「歓喜の歌」)。文化史的には、ルネサンスの再発動に近いものがあると思われるのである。そう、他者が賦活され、差異共振性が活性化したと言えよう。しかしながら、それが過剰であっために、反動化したことも事実なのである。精神過剰主義である。【だから、ここから、世紀末や唯美主義等は延長であることは見やすいであろうし、また、20世紀になっても、後期ロマン主義や表現主義として継続したと見ることができるだろう。因みに、モダニズムは、ロマン主義と写実主義(広義の近代主義)、言い換えると、差異と同一性との衝突であり、両者の妥協点・調和点を求めた志向であったと言えよう。だから、モダにイズムは、差異に傾斜した様態と同一性に傾斜した様態と中間的様態があるのである。英米文学で言うと、差異に傾斜したのが、D. H. ロレンスであり、同一性に傾斜したのが、T. S. エリオットやエズラ・パウンドであり、中間的様態が、W. B. イェイツやジェイムズ・ジョイスであろう。】
 最後については、後で整理したい。

p.s. 初期デリダの脱構築主義であるが、差延を先には、-1と+1との差異として捉えたが、以上の考えから見ると、それはやや説明が足りないように思える。問題は、+1である。これをまたハイデガーの本来的存在と見たのであるが、どうだろうか。
 確かに、+1という様態は不安定というか不明確なものがある。同一性仮象である。例えば、波打ち際にたって、打ち寄せる波を見ていると、波と知覚が揺れ動くのがわかるだろう。「わたし」が波となったり、しかしながら、「わたし」と波とは別々の存在であるというような知覚現象が発生するだろう。同一性仮象は、差異共鳴性を内包していると考えられるのである。そう、コスモスを内包しているといいだろう。【神話とは、ここから表現されたものだろう。】
 だから、純粋な+1があるかどうかは問題ではないだろうか。しかしながら、現実的には、同一性仮象を実在として捉えて生活しているのである。眼前にあるデスクは同一性仮象ではあるが、物質現象として捉えて生活しているのである。
 現実的な生活においては、同一性仮象を物質現象として把捉しているのであるから、+1は生活においては、仮象ではあるが、存在すると言えよう。だから、 +1に揺らぎが生起するのは、現実的生活を離れたときと言えよう。単独で居るときに、同一性仮象が揺らぎ、差異共鳴現象が生起すると考えられるのである。
 ここから、初期デリダの差延を考えるとどうだろうか。例えば、現在という事象に対して、過去や未来という事象が潜在しているのである。思うに、差延は明快に説明できるだろう。つまり、他者を排除的に否定する同一性主義と排除的に否定された他者との関係が差延であると言えるのではないだろうか。例えば、現在とは、同一性主義の同一性であり、それに対して、他者は過去であり、未来である。つまり、現在と過去ないしは現在と未来との差異共鳴によって、本来、時間が生起しているが、同一性主義だと、過去ないしは未来を排除的に否定しているので、現在と過去ないしは未来とが二項対立になっている。しかるに、本来的には、現在と過去ないしは現在と未来との差異共鳴があるのであり、差異共鳴性の回帰を差延として初期デリダは捉えたのではないだろうか。
 ならば、初期デリダの脱構築主義も、本来的には、差異共振主義である。ただし、初期デリダは、超越性を否定しているので、虚数世界、イデア界に達することができずに、水平的な差異共鳴性の提示に終始したように思えるのである。
 思うに、水平的な差異共鳴性とは、実軸に圧縮された差異共鳴性であり、実軸上のMedia Pointであると考えられるのである。思うに、ハイデガーの本来的存在は、+1ではなく、この実軸に圧縮されたMedia Pointであるように思えるのである。
 思うに、構造主義のゼロ記号も、この実軸に圧縮されたMedia Pointではないだろうか。そして、ドゥルーズの差異であるが、それは、差異を他者と連続化しているのであり、差異を同一性化して、差異を微分にしているのであり、初期デリダの脱構築主義よりも後退していると言えるのである。なお、後期デリダは、差異の不連続性、即ち、特異性に注視して、純粋な Media Pointに近づいたと考えられる。
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