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2008年06月08日 (17:10)

MPの即非二元性:父権的同一性主義と母権的差異共振主義:新ギリシア・ルネサンスあるいは大調和主義

超越神の発生は、イデア極性における反発による同一性主義によるというこれまでの仮説を基に検討を進展させたい。
 自己認識方程式(+i)*(-i)⇒+1において、左辺を否定して、⇒-1となる。これが同一性主義であるが、⇒の左辺は超越神になると仮説している。たとえば、プロテスタンティズムはこれで説明できるだろう。
 私が不思議に思ったのは、結局、近代主義においては、左辺の超越神が消失していくことであるが、その原因は何であろうか、ということである。別の例として、戦後の日本人を見ると、宗教観念が稀薄となり、近代合理主義・唯物論を信じている。これも、同一性主義の帰結であるが、日本人の場合、超越神ではないが、神はどこへ行ったのか。
 ここでは、プロテスタンティズムについて考えよう。初期においては、超越神の観念が生きていたが、今や、ほとんど死滅しているだろう。アメリカは例外的であるが、イギリスやドイツではそうだろう。
 だから、一枚岩ではないのである。とは言え、アメリカ人が宗教的とは言え、私見では、近代合理主義・近代的自我的である。
 結局、同一性主義は、初期は神観念があるが、結局、物質主義の近代合理主義・近代的自我に帰結する力学は何だろうか。
 同一性主義は、自我観念を発達させる。近代において、近代科学・技術と資本主義の発達があったが、これらが、神観念を切り崩していったものだろう。
 では、神観念の喪失とは何を意味するのか。それは、Media Pointにおける壁の完成ではないだろうか。そこには、絶対的な壁ができ、もう壁の向こう側のエネルギーがなくなるのだ。ということは、壁の消失でもあるだろう。それまで、超越性と現象性を区別していた壁がなくなったのだろう。無壁の状態とは何か。
 これは、無意識に支配される状態ではないだろうか。差異共振性が無意識として潜在している。そして、壁無の状態では、この無意識=差異共振性が支配するようになるのではないのか。
 否、無意識=差異共振エネルギーがありながら、それを排除・抑圧する自我意識体制が生まれるだろう。これは、明らかに、全体主義である。同一性主義資本主義である。マネーゲームであろう。当然、人間は機械化するのである。同一性主義の「悪魔」に支配されるのである。言い換えると、同一性主義構造に支配されるのである。そう、これが、現代世界の真相であろう。
 これまでの考察からみると、これは、イデア極性の反発による力学の帰結に因ると考えられる。言わば、自然の傾斜がこのような狂気的状況を生んでいるのである。
 ここで、シュタイナーの悪魔論を想起するのである。アーリマンとルシファーの「二人」の悪魔がある。前者は物質主義ないしは同一性主義である。後者がわかりにくいのである。思うに、ルシファーとは、差異共振主義ではないだろうか。
 そして、シュタイナーは両者のバランスをとる力として、「キリスト」をおいているのである。私見では、この「キリスト」は、Media Point知性(理性)である。
 簡単に言えば、アーリマンとは物質主義であり、ルシファーは精神主義である。そして、「キリスト」は物質と精神との均衡・調和である。
 これは確かに明快である。私なりに言い換えると、アーリマンは父権主義であり、ルシファーは母権主義である。そして、「キリスト」は、両者のバランスである。
 これは、かなり説得力のある考え方である。もっとも、これまでの私の考察に拠るなら、アーリマンは反発であり、ルシファーは引き合いである。そして、「キリスト」は、Media Point調和知性である(余談だが、調知、調知性という言葉を作ってもいいだろう。共立知性、共知性である。)。
 そう、この視点から、たとえば、ドゥルーズ哲学を見ると、それは、ルシファー主義と言えよう。アーリマン主義=同一性主義を否定して、ルシファー主義=差異共振主義になっているのである。そうならば、先に、ドゥルーズ哲学は+1+(-1)=ゼロと言ったことと齟齬を来す。
 直感では、ドゥルーズの差異とは、確かに、+1における力動を捉えているが、不鮮明なのである。曖昧なのである。大雑把なのである。つまり、ドゥルーズの差異は、+1的であるが、同時に、内在主義なので、+1が同一性主義へと展開するのである。つまり、ここで、+1+(-1)=ゼロが生起すると思われるのである。これで齟齬が解消した。
 また、ハイデガー/初期デリダ哲学を見ると、それは、アーリマンとルシファーの「差異」を提起していると言えよう。しかし、「キリスト」(Media Point 認識)がないのである。
 さて、以上の考察から帰結するのは、今日の同一性主義=アーリマン主義は確かに極端であるが、ポスト・モダンのような差異共振主義=ルシファー主義も反動的極端さをもつということであろう。
 必要なのは、Media Point Intelligence-sophiaである。これはMedia Point調和知性、調和理性、調和叡知と呼べよう。同一性主義と差異共振主義を調和させる大調和知性である。
 私は新母権主義を唱えているが、それは、端的に、この大調和理性主義である。(占星術では、水瓶座文化期となろう。)
 そうすると、これまで、差異共振主義と言ってきたものは、一面的であったことになる。私は同一性を包摂した差異共振性としての差異共振主義を考えてきたのであるが、それは弱いと言えよう。そうではなくて、同一性主義と差異共振主義との調和が必要なのである。簡単に言えば、同一性と差異との調和ということである。
 これは、先には、ギリシア悲劇において確認できたことである。そう、ギリシア悲劇を含めて、ギリシア神話は、この大調和を志向していると言えよう。思うに、イタリア・ルネサンスは、ギリシア・ルネサンスではなくて、差異共振主義=母権主義=ルシファー主義ルネサンスではなかったのか。それは、厳密に言えば、母権ルネサンスであり、ギリシア・ルネサンスではない。
 ということで、結論的には、新ギリシア・ルネサンスがこれから勃興するということであり、それを志向すべきである。

p.s. 以上の結論から、政治について明快な理念が生まれてくるだろう。自由主義は同一性主義であり、民主主義は差異共振主義である。両者の調和主義が新理念となるのである。だから、大調和主義が新政治理念となろう。
 また、D.H.ロレンスの「王冠」の思想も解明される。父と子の対立を相克するものとして聖霊を考えているが、これは、父権主義(ヤハウェ:一神教)と母権主義(イエス:多神教)の対立を相克する調和主義と言える。

p.p.s. Media Point大調和主義から見ると、モダンとは、同一性主義の病であり、ポスト・モダンは差異共振主義の病である。トランス・モダンが両者の傾斜を乗り越え、両立調和主義へと主導するのである。これは、自由主義と民主主義の大調和主義である。D.H.ロレンスの王冠主義である。

3p.s. 用語の的確さ、適性さのことであるが、上記では、同一性主義=アーリマン主義に対するに、差異共振主義=ルシファー主義を説いたが、果たして、差異共振主義でいいのか。差異主義ではないのかと疑問に思うのである。
 やや微妙であるが、たとえば、ポスト・モダンの場合、同一性主義とのなんらかの連続性があった。だから、その「差異」主義とは、厳密には、差異共振主義ではない。しかしながら、包摂する視点から見ると、ポスト・モダンの「差異」は本来は差異共振主義から発生しているものである。だから、広義的に、差異共振主義としても間違いではないと考えられる。差異主義とは、差異共振主義の派生ということである。
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