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2008年07月27日 (13:30)

検討問題:1)現象界について:-1と+1の即非様相:物質と差異共鳴精神身体現象

1)現象界について
http://sophio.blog19.fc2.com/blog-entry-19.html

以上の迷惑コメントがあった記事(「メディア界の連結力学・構造について」)は、不連続的差異論を説いていた頃のもので、約三年前のもの(2005年10月07日付け)であったが、それを読み返して、現象界についての発想が浮かんだので、ここで検討したい。
 問題は、以前にも検討したが、-1と+1との関係である。この問題は実に興味深い、いわば、不思議な問題である。
 -1は同一性主義である。それは、自己同一性主義であり、自我主義であり、物質主義である。フッサールが『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』(以下、『危機』)で述べたことと関係する。フッサールが批判する自然的態度は、-1の自我主義的見方であるのではないだろうか。
 +1の見方とは、差異共振・差異共鳴の精神身体認識(精神身体はMedia Point的であるが、思うに、精身を造語したい)であるが、通常は、ないしは、ポスト・モダンは、-1と+1とが混淆して、連続化しているのである。【p.s.  -1と+1との混淆は、ドゥルーズの場合に的確にあてはまる。デリダの場合は、そうではないので、陳謝し、訂正したい。デリダの脱構築主義は、微妙なところがあって、不連続的差異論に近いのであるが、超越性の否定を前提にもって、諸哲学において、-1と+1が共存している様相・様態を確認して、-1の同一性システムに対して、+1の差異が並存している事態を提示して、同一性システムを脱構築するものと考えられるのであり、混淆というよりは、同一性と差異との併存と言わなくてはならない。】
 ここで端的に、構想を言うならば、物質現象とは-1であり、精神身体現象は+1である。しかしながら、現代の見方は、前者中心であり、後者は否定・抑圧・排除・隠蔽されていると考えられる。
 ここで、やや迂回して、量子論について言うと、それは、物質同一性-1の近代科学に対して、+1のトランス・モダン・サイエンスを提起しているのではないだろうか。ただし、量子を物質主義的に捉え、イデアとして捉えていないので、不十分と考えられるのである。イデア(対極イデア:正確に言うと、双極イデアか?。四元的イデアということになるし、Media Pointを加えると、五元的イデアとなるのではないだろうか)の共鳴である量子という考えには達していないのである。【電磁波は、結局、イデアでいいのではないだろうか。一般的には、まだ、物質主義的視点で捉えているだろう。イデアとしての電磁波であろう。】
 ということで、現象とは、一般には、-1の物質現象として考えられている。しかし、心的現象・精神現象があり、これがうまく捉えられていないのである。例えば、「気」をどう捉えるのか、ということもあるし、どのように宗教現象、神秘現象を理解するのかということもある。それらを脳生理学的に捉える傾向があるが、それはやはり、物質主義である。 
 心的現象は、+1と捉える必要があるだろう。フッサールは『危機』で、-1という自然的態度を還元(解体)して、(⇒)+1の超越論的主観性を説いたと考えられる。ただし、既述のように、フッサールは主観的同一性に囚われていたので、差異共鳴(太極イデア)という考えには達しなかったのである。
 端的に言えば、現象の表層は-1の物質現象であり、現象の深層・実相は+1の精神現象(精神身体現象)であるということになる。そして、-1と+1とは即非様相にあるということになろう。先にバッハ音楽について述べたが、バッハ音楽は、-1の聴覚を介して、+1の精神現象(差異共鳴現象)が奇跡的に豊饒に表現されていると言えよう。そして、芸術の感動とは、+1の表現を介して、Media Pointが開いて、イデアに接することにあるのではないだろうか。崇高さとは正にそのように考えられるのである。そう、正に、プラトンの説いた美や善はそのようなものであろう。また、根源的真理はそのようなものだろう。
 さて、ここで、再度、ポスト・モダンについて触れると、超越性(虚軸、イデア性)を否定して、Media Pointを実軸に留めているので、その差異(差延)とは、ゼロに閉塞した+1を意味するのであり、それで、袋小路になっているのである。つまり、虚軸・超越性のもつ開放性がないのである。閉塞された差異と言えるのである。だから、ポスト・モダンは、モダンとトランス・モダンの境界にあると言えるだろう。モダンの縁と言えよう。
 では、構造主義はどう把握できるだろうか。直感では、ほとんど、ポスト・モダンに近いのである。二元対立構造は、言わば、-1の視点から見た+1で説明ができそうである。つまり、物質的二元論(二項対立)の視点から、精神身体現象+1を見ると、二元対立構造が現われると考えられるのである。つまり、即非性のない対立構造である。せいぜい、両義性の構想に留まるのである。【デリダのファルマコンの考えも、これに近いだろう。】
 整理するなら、構造主義は、物質主義-1から差異現象+1を見たものであり、ポスト・モダンはゼロ・ポイント⇒+1の理論と言えようか。そして、不連続的差異論はMedia Pointを捉えた一つのブレークスルーと考えられよう。そして、PS理論は、さらに差異をイデア的共鳴現象と捉えたのである。【p.s. デリダの脱構築理論は、上述したが、不連続的差異論に接近している。ただし、水平軸的特異性としての差異を捉えているので、垂直性が欠落しているために、いわば、三次元にとどまっているのである。】
 

2)日本人に個はあるか。昨日の雑踏を見て、また、公的空間でべたべたする男女を見て、日本人は、個として独立しているのかと思う。
 官僚支配唯物社会主義体制下にあって、日本社会において、日本人は個としての営為をもたないように、抑圧されているのではないだろうか。官僚封建主義にあって、官僚中央集権によって、政治、経済、メディア、教育、文化等々が支配されているのであり、個としての自由な営為をもてないように、巧妙に抑圧・拘束されているのではないだろうか。
 一般の日本人は、その被束縛が、もう気がつかなくなっているのではないのか。いつの間にか、差異を抑圧する同一性主義に染まっているのに気づいていないように思えるのである。つまり、日本人は、同一性主義という「精神病」に罹っているのではないか。
 


3)「精神分裂症」について:同一性主義は、「精神分裂症」を生む。
 同一性資本主義は、パラノイアと同時に、「精神分裂症」を生むのではないだろうか。【p.s.  これは、理解しやすい。何故なら、同一性主義は、自己同一性完結主義=パラノイアとなるのであり、同時に、否定・排除・隠蔽した差異他者-iが、他者の人格として、発現すると考えられるからである。これでは、二重人格であるが、Media Pointの多様・多元性を考えれば、多重人格が考えられよう。】


4)言語空間について:言語とMedia Point精神身体現象
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