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2008年07月30日 (17:25)

脱構築主義とプラトニック・シナジー理論:特異性の展開としてのMedia Point

今は余裕がないので、以下、bloghiro-dive氏が述べていることについて、少しコメントしたい。
 bloghiro-dive氏の視点は、私見では、プラトニック・シナジー理論(以下、PS理論)を理解しようとするのではなく、彼の理解するデリダの脱構築主義に則り、PS理論を裁断しているものと考えられる。
 つまり、構築する行為は、可能性の縮減であるから、脱構築主義に劣っているというような発想だと思う。
 ここで一点だけ言うと、デリダは同一性システムにおける決定不能性を取り出して、脱構築=解体するわけであるが、実は、決定不能性の根拠は、特異性ないしは特異点である。それは、後期デリダは明確に述べている(『死を与える』)。
 しかしながら、PS理論は、この特異性(単独性)を掘り下げて、超越性と同一性とが交差する点(Media Point)まで、いわば、深化させたのである。ここで、特異性=不連続的差異が、超越的差異共振性であることが仮説されたのである(当然、PS理論は、仮説である)。
 そして、ここから、単に脱構築ではなく、新たな構築が可能になったと考えられるのである。つまり、ポスト脱構築主義である(もっとも、的確に言えば、トランス脱構築主義である。何故なら、新しい構築とは、脱構築主義を包摂していると考えられるからである。脱構築主義が前提になければ、新しい構築は古くさいものであり、偽物、紛い物である。)。
 bloghiro-dive氏は、デリダの脱構築主義を教条主義的に受け取り、それを絶対化(ドグマ化)して、それ以外の可能性を裁断的に否定している考えられるのである。
 最後に一言いうと、bloghiro-dive氏の文体が魔女狩り的になっているのに気づかれないだろうか。これは、哲学を行う人間の文体とは正反対と言わなくてはならないだろう。

p.s. また、以下の引用の最後の方の、仮説を否定したり、可能性を云々したりしている箇所は支離滅裂である。

*******************************

「差異を自己理論に担保できていると思い込んでいるが、理論化している時点で抹消される可能性に無頓着なのを考えれば、いかにその理論が自己瓦解しているか理解できるだろう。「これを簡便に取り扱うために、Media Pointという「概念」を構築した。で言う、Mediaとは、「媒体」の本質、つまり、「Aであり、Bである」状態を示し、結局、「即非」状態のことである 」とは、この理論の孕む根本問題を明白している。言わずとも構築しているわけだ。その代償が可能性の縮減化であることはいうまでもない。理論とは構築することで、別の理論の可能性を縮減するのだ。このハーバーマスがデリダと何十年も拘った部分に無頓着なのだ。知らないのであろう。「Media Pointという「概念」を構築した 」と自信気に述べる部分は嘲笑か沈黙のいずれかしか選択できないだろう…。あまりの無知蒙昧と無頓着、分析力に欠く点で。東洋哲学であれ、アフリカ哲学であれそんなものは仮説でしかない。可能性としてあるだけである。デリダが言うように可能性としてのみ妥当性のあるアクチュアリティーが存在する。」
http://ameblo.jp/bloghiro-dive/entry-10121507312.html
差異と反復それでも差異と反復/言論闘争の時代
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