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2008年08月02日 (14:31)

マスコミ、とりわけ、テレビの問題点について:他者のカモフラージュとしての同一性主義的メディア

マスコミ、とりわけ、テレビの問題点について:他者のカモフラージュとしての同一性主義的メディア

テーマ:日本の政治/ポスト小泉

テレビとは何だろうか。私はほとんど見なくなって久しい。しかし、今、テレビからの声が聞こえているが。
 テレビ・マスメディアとは何か、ということである。ここには、メディアの問題がある。そう、メディアとは何か。これは、当然、広告・宣伝の胆である。
 メディアとは何か。メディアとは、人間における精神的基盤である。これがなければ、人間の精神は基盤を失い、崩壊するだろう。結局、他者問題になると思う。人間は、他者への志向性がある。しかしながら、これが、反転して、鏡像的な同一性主義へと展開し、自我崇拝(ナルシシズム)となるのである。
 言い換えると、同一性主義の裏には、他者が存するということである。つまり、他者の仮装としての同一性主義があると考えられるのである。人間には、他者が必要であるが、他者は恐怖なので、同一性主義でカモフラージュするのである。(他者とは、具体的に知るには、女性や子どもや動物等を見るといいだろう。生成多様性といちおう言っておこう。)
 【やや飛躍して言うと、西洋資本主義は、意識ないし無意識のユダヤ・キリスト教的同一性主義のバイアスないしは傾斜をもっている。つまり、他者を否定している同一性主義である。ただし、複合的な問題があるのである。ヤハウェ的一神教=同一性主義とイエス的多神教=他者主義があり、両者混淆していることを忘れてはいけない。有り体に言えば、「精神分裂症」の西洋文明なのである。そう、資本主義において、同一性主義が原動力である。言い換えると、他者を志向しつつ、反転して同一性主義(交換価値)へと展開するのである。】
 メディアの問題に戻ると、根本は差異への志向でありながら、それが反転して同一性主義となり、この同一性主義を構築しているのが、メディア、とりわけ、マスメディア=マスコミであると考えられる。
 つまり、マスコミ/テレビ問題とは、人間が内在的にもつ同一性主義に根差しているということになる。だからこそ、大問題であり、難問なのである。
 いわば、人間の「本能」がマスコミ/テレビに魅入られるのである。「本能」的マインドコントロールである。【因みに、これを利用したのが、小泉似非構造改革である。】
 だから、言説批判空間的には、マスコミ/テレビ的メディア批判が常に必要である。これは、言うのは簡単であるが、実効的には極めて困難である。【もっとも、ある意味で至極簡単である。即ち、マスコミ/テレビを見なければいいのであるが、一般的にはそうはいかないだろう。確かに、ネット・メディア(ネット・コミュニケーション:ネッコミ? ウェブ・コミ?)が台頭して、取って代わろうとしているが。】
 思うに、理論・哲学的には、人間に内在する同一性主義への批判を常にもつ必要があるということになる。永遠の同一性主義批判である。この点では、脱構築主義は永遠の価値をもつだろう。もっとも、不連続的差異論の方が的確ではあるが。
 しかし、さらに、差異への志向を明確にする知的必要があるということである。つまり、差異意識・差異認識・差異知性化である。しかしながら、これは、単純な知性主義ではなく、いわば、インテリジェンス化である。つまり、差異化のためには、感性を包摂する知性が必要になるということなのである。通常、カント哲学的に、感性と知性が分裂しているが(これは、近代主義における分裂であるが)、これを統合する必要があるということである。ポスト・モダンにおいては、ドゥルーズの場合、差異的な一種の統合化が為されたが、それは、差異と同一性との連続性に基づくものであり、誤りの統合化であったし、デリダの場合は、「不連続的差異」に基づく永遠の同一性主義=同一性構築主義の解体があり、統合化は否定されたのである。
 不連続的差異論を進展・深化させたPS理論(PSセオリー)は、差異を極論すれば感性として捉え、差異を包摂した知性を提唱している。つまり、カント的分裂が、ここでは乗り越えられたと考えられるのである。いわば、物自体を包摂した知性が出現したと考えられるのである。だから、ポスト・カント主義、トランス・カント主義でもある。
 差異(感性)を包摂した知性とは、言い換えると、差異共振的知性ということである。これを自己意識(自己精神身体)において、形成するならば、単に同一性主義批判だけではなく、他者発見と他者との共鳴が可能になると考えられるのである。
 そう、PSセオリーは、新たな発見の知的トゥールでもある。これによって、同一性主義の偽装・仮装の壁を突破して、他者を発見して、新たな他者との共鳴社会(差異共鳴社会、差異共同体)が形成されると考えられるのである。
 結局、マスコミ/テレビ的メディア批判とは、同一性主義批判であり、PSセオリーによって、差異を包摂した知性=トランス・モダン・インテリジェンスが形成され、それにより、他者との共鳴社会(差異共同体)の形成が可能になると考えられるのである。今はここで留める。

p.s. 差異共鳴知性とは、言うならば、超越的差異(超越的感性)を包摂した超越論的超越的差異知性と呼べるのではないだろうか。しかし、超越論的超越的差異云々という言い方は不器用である。超越論的超越性を簡潔に呼ぶ必要がある。しかし、それは超越論性でいいのではないか。しかし、超越論では、超越性がうまく組み込まれないイメージがある。そう、超越論性では、超越性が洩れているのである。問題は、超越性を包摂した超越論性である。超論超越性と造語しようか。

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