2006年01月09日 (02:15)

Pensees on 08/jan/06

1) 共観福音書とヨハネ福音書:前者が、改竄されたものであり、後者が、プラトン/グノーシス主義の覚智者イエスを伝えているだろう。初めにロゴスありき。ロゴス=イデア=ソフィア(叡知)である。

2) 田舎で、東の夜空にかかるオリオン座やその周辺の星を観る。なにか、宇宙は渦巻いているように思えた。cf. ゴッホの糸杉の絵。星月夜等。
http://www48.tok2.com/home/nekoMusa/gogh4.html
http://stephan.mods.jp/kabegami/kako/StarryNight/1280.html#kab_1

3)大宇宙はフラクタルの形態をしているのではないか。イデア界は、ケルト十字のようではないだろうか。ガウス平面上の回転・円運動。そして、メディア界で、渦巻が発生する。いわば、入れ子状に渦巻が発生するのではないか。イデア・メディア境界で、「渦巻」が発生する。これが大宇宙の「渦巻」で、これが、入れ子状に展開されるのではないか。大宇宙「渦巻」、星雲、銀河、太陽系、台風、渦潮(cf.アメノウズメノミコ)、つむじ、指紋等。

4) なぜ、創造神話において、何故、水と空気(霊)の結合が説かれるのか。cf.対極性。

5)近代主義(近代的自我主義、近代的合理主義、唯物論)とは悪、大悪であった。これが、現代の日本の病巣である。父権部族主義的近代主義である。これが、日本の体制となり、日本人本来の多元論的美質を破壊しているのである。日本人の個を集団主義に洗脳しているのである。

6) ウェブログは、日本人の否定された「多神教」性を復活させるだろう。これは、日本の復活である。

7) 近代的学問体系の完全な崩壊が起きている。ポスト・モダンの創造的学問体系がうまれつつあるだろう。

8) 今や、世界は、ポスト西洋文明、ポスト一神教に転換しているのに対して、日本は、旧態依然として、西洋文明、一神教、国家ナショナリズムで動いている。致命的な認知ミスである。

9) 近代主義は、主客二元論の知識主義であり、これは、自己中心主義である。日本の知識人は、典型的である。

10) 近代的知識主義に取って代わる、ポスト・モダンの超越論的認識主義が必須である。これまでの近代的学問はすべて崩壊する。近代的学問・知識人の「産業廃棄物」が生じる。

11) 結局、ポスト・モダン、ポスト近代とは、単に、近代の後の時代という意味ではなくて、近代の超克・止揚・揚棄である。これは、西洋文明の終焉ということである。

12) 西洋近代主義によって否定された、世界の先住民文化が復活するだろうし、そこに多元主義の発芽があるだろう。

13)ポスト西洋文明の人文系的先駆として、ブレイク、シュティルナー、キルケゴール、ドストエフスキーがあげられ、決定的契機として、ニーチェ、D.H.ロレンス、フッサールがあげられるだろう。フランス現代思想は、この系譜を、混沌としながら、継続したものと考えることができる。

14) 資本主義は、連続主義から、不連続的差異主義へと転換する。

15) 日本の復活は、個々が、自律することから生まれるだろう。ブログは、個のメディアである。

16) 結局、人類の復活は、個々の覚醒に拠るのである。イエスが本来説いたものは、個の覚醒であり、ブッダ・釈迦の叡知・覚智と等価である。万教帰一。

17) イスラム教とは何か。スピノザ哲学に似ていると言われる(今村仁司氏)。イスラム教は、後一歩で、多元主義になるだろう。不連続的差異論の先駆の一つにイスラム教をあげてもいいのではないか。

18) 教会というものは破壊されなくてはならないだろう。これは、集団的洗脳機構である。個々の教会関係者を否定するのではなくて、教会という機構の否定である。生臭坊主より、はるかに誠実な牧師さんはいるのである。

19)太陽の意味、月の意味、宇宙の意味を考え直すこと。太陽や惑星は、思うに、イデア界の象徴であるように思える。つまり、ガウス平面=イデア界の1/4回転が、太陽や惑星の根源であるように思える。つまり、差異のゼロ化(空化)によって、差異が凝縮して、エネルギーが発生するように思えるのである。この差異の凝縮の核心が太陽・恒星ではないだろうか。つまり、(0,0,0)が、太陽・恒星の原点ではないか。惑星や衛星は、太陽・恒星の痕跡ではないのか。つまり、太陽・恒星とは、差異の1/4回転による原点化であるが、惑星や衛星は、原点化以前の差異に関係しているのではないか。換言すると、多元的不連続的差異の凝縮化が、太陽・恒星であるのに対して、諸惑星・衛星とは、根源的不連続的差異の5次元性のメディア界化ではないか。この5次元性が、プラトン立体と関係し、また、ケプラーの惑星論に通じるのではないだろうか。マイナス軸を考えると、10次元と1次元の11次元である。(思うに、+5次元と−5次元の両極化の1次元で、11次元となる。しかし、この総体次元があるように考えられるので、結局、12次元となるのではないだろうか。12という数は重要である。時間の数である。)思うに、このイデア界の次元数が、惑星や衛星と関係するのではないのか。イデア界の次元数が惑星・衛星を発生させるのではないか。結局、そうすると、太陽・恒星と惑星・衛星は、等価となるだろう。差異の連続・原点化が太陽・恒星であり、差異の次元数の連続化が、惑星・衛星ということになるのではないか。

2006年01月01日 (18:30)

ケルト的なものとイデア界:イデア・ロゴス・ヴィジョン

私見では、イギリス文学とは、濃厚にケルト的要素を含んでいる。(また、アメリカ文学にも、ケルト的要素がかなりあると思っている。また、ヨーロッパ文学にも、かなりあるのではと思える。)煩雑なので、固有名は出さない。
 さて、イギリス文学は、また、確かに、経験論的ではあるが、それ以外に、イデアリスムの要素があると思っている。イデア界から発想している面がある。この点では、ドイツ的と言ってもいいのだろう。しかし、ドイツ文学とは異なり、イデアリスムが、レッシングやシラー等のように発現することはない。経験主義とイデアリスムが混淆しているのである。
 ここで、ケルト的要素とイデアリスムの要素を突き合わせてみると、両者は通じているのではないかと思えるのである。ケルト的要素とは、超越論的自然主義のようなものである。妖精や魔術が出現するが、それは、自然と関係するが、自然を内在的に超越している。だから、超越論的自然主義である。そして、これが、イデアリスムと通じているということである。考えてみれば、イデア界とは超越論的自然である。気をつけるべきは、超越的自然ではないのである。超越神的ではないのである。現象学的である。結局、ケルト的超越論的自然主義とイデアリスムの超越論的自然性は同一ではないかと思われるのである。つまり、ケルトもイデアリスムも、超越論的自然主義ということである。
 そして、これに経験論を加えると、超越論的自然主義的経験論となる。これが、イギリス文学のエッセンスと言えるだろう。
 さて、さらに、私見では、イギリス文学は他の文学と異なる点は、視覚と関係していることである。これは意外におもえるかもしれないが、事実である。フランス文学よりもはるかに視覚性に関係しているのである。詩人であり、版画家であるウィリアム・ブレイク、美術・建築の評論のある作家ジョン・ラスキン、モダン・デザインの創始者として有名であるが、ファンタジー作家であるウィリアム・モリス、美術に詳しかった、また、晩年絵を描き始めたD.H.ロレンス等々いるのであり、また、ディケンズの『クリスマス・キャロル』は、鮮明な映像を読み手に喚起するのである。(私はイギリスの文学者は、文学・言葉で、描画していたのではと思うのである。20世紀以前のイギリスの画家よりも、文学者の方が、ある意味で、絵画的だったと思えるくらいである。)この視覚性に関してだが、これは、ヴィジョン・心像と言っていいだろう。
 さて、さらに、西洋文学の表現の特徴であるアレゴリー性を考えると、それは、簡単に言えば、抽象的なものを視覚化することである。そして、イギリス文学には、このアレゴリー性がかなりある。結局、ヴィジョン性とアレゴリー性がイギリス文学の特性と言えるだろう。
 では、先にあげた超越論的自然主義的経験論とこのヴィジョン・アレゴリー性との関係をどう見るのかと言うと、これは、イデアとヴィジョンが通じていると考えることで説明ができると私は考えている。イデアとは、観念ではあるが、本来、ヴィジョンである。この心像的ヴィジョンのイデアがあり、無意識のうちに、それを根拠にして、作家は創作しているのではないかと思われるのである。また、語源的には、イデアideaとヴィジョンvideoは同一である。そう、ここにロゴスを加えてもいいだろう。即ち、イデア・ロゴス・ヴィジョンである。
 ということで、イギリス文学のケルト性、イデアリスム性、視覚性を、結びつけることができた。結局、超越論的自然主義・イデアリスム・ヴィジョン的経験論的文学ということになろう。

p.s. イデアリスムではなくて、プラトニズムと言う方が適切である。イギリスに科学や数学が発展したのは、この要素が強いと思う。
参考:ケンブリッジ・プラトン学派
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B1%E3%83%B3%E3%83%96%E3%83%AA%E3%83%83%E3%82%B8%E3%83%BB%E3%83%97%E3%83%A9%E3%83%88%E3%83%8B%E3%82%BA%E3%83%A0

2005年11月22日 (03:55)

『エトルリアの故地』Etruscan Places 1932 D.H.ロレンス著 奥井潔訳 南雲堂

これは、小説家(長編、中編、短編)、評論・批評家、紀行作家、詩人、劇作家他であったD.H.ロレンスの紀行文である。紀行文として、他に、『イタリアの黄昏』Twilight in Italy、『海とサルジニア』The Sea and Sardinia、『メキシコの朝』Mornings in Mexicoが、代表的である。『メキシコの朝』を除けば、イタリア紀行文の三部作と言えるだろう。
D.H.ロレンス(1885〜1930)は、日本では、一般には、『チャタレイ夫人の恋人』でのみ知られたほぼ忘れられた作家であるが、アカデミズムにおいては盛んに研究されている作家である。ここで一つ問題をあげておけば、現代文学のカノン(「聖典」)の問題がある。20世紀現代文学の代表的古典として、ジェイムズ・ジョイスの『ユリシーズ』(並びに、T.S.エリオットの『荒地』)とマルセル・プルーストの『失われた時を求めて』をあり、これらが、規範となって、現代文学が形成されてきたことは確かであるが、しかし、現代文学が行き詰まる新世紀において、アカデミズムの規範が排除してきた文学を見直すことは意味がある。詩人T.S.エリオットは、批評家でもあり、文学のモダニズム革命に当たり、文学の規範を、古典主義に求めて、ロマン主義を排除した。しかし、このモダニズム革命は、矛盾していたのである。自身の内部にロマン主義ないしサンボリスム(象徴主義)の要素をもっていたのであり、それを否定するように、反動的に、古典主義を主唱したのである。だから、モダニズムは早晩限界に突き当たるのである。結局、ロマン主義や象徴主義の問題に正対しなくてはならなかったのであり、今日、D.H.ロレンス研究が盛んであるというのは、この意味があると言えよう。つまり、ポスト・モダニズム(ポスト近代主義)の問題が、現代的であると言えるのである。そういう現代の知的文脈において、D.H.ロレンスの再評価があると考えるべきである。そういう意味合いにおいて、ロレンスの本作品と自身の絵画集の序論を見ていきたい。

エトルリアとは、簡単に言えば、先史時代、イタリア半島に住んでいたイタリアの先住民である。紀元前8世紀〜紀元後2,3世紀まで、存在して、ローマ帝国によって滅びた。今日、イタリア半島の西側にある海洋をティレニア海と呼ぶが、ティレニアとは、エトルリアの語から発している。
本作は4つのエトルリアの地を選んで、そこの遺跡の紀行文となっている。

1. チェルベテリ
2. タルクィニア
3. ヴルチ
4. ヴォルテラ

本紀行文の中核となるタルクィニアに関する章を簡単にまとめる。


「タルクィニア」
http://www.ou.edu/class/ahi4163/files/tomb01.html
「古代の原始時代の地中海民族、それもアジアもしくはエーゲ海系の民族の系譜に属していたと考えなければならない。私たちの歴史の始まりを告げる夜明けの薄明かりは、それに先立って存在した歴史の日没を告げる薄明かりに外ならなかった。」p.54
「エトルリア文明は、先史時代の地中海世界から芽吹いた一本の小枝、おそらくは最後の一枝のように思われる。そして、エトルリア人というのは、新たに来た人々も原住民たちも、互いに種族の異にし、文化の水準を異にしてはいたけれども、共にあの有史以前の古代世界に属する民族であった点では同じだった。勿論、後になるとギリシア人が大きな影響を及ぼすことになった。しかしそれはまた別問題だ。」p.54
「・・・ちょうどエトルリアの宗教が十中八九まで基本的には土着の宗教であり、有史以前の古代世界を包んでいたある広大無辺な古代の宗教に属するものであるように。有史以前の世界という暗がりの中から滅び行く様々な宗教の瀕死の姿が浮かび出て見える。それらの宗教は未だ男の神々、あるいは女の神々という人格神を作り出してはいず、ただ大宇宙に存する根源的な諸力の神秘によって、私たちが今日弱々しい声で自然と呼んでいるものが持つ、あの様々な複合的な生命力によって生きている宗教である。神々も女神たちも、何ら明確な形では未だ出現してはいなかったように見えるのだ。」p.56
「エトルリア人の本能のなかには、生命(いのち)から生まれる自ずからなる気分を守りたいちう真率な願望があったように思われる。」p.68


「タルクィニアの壁画のある墓(1)」

「狩りと漁り(すなどり)の墓」p.86
「みんな小さくて、浮き浮きとしていて、生き生きとした動きがあり、若い生命だけが持つあののびやかな自然さがある。ただ、こんなにも破損がひどくさえなければ嬉しいのだが・・・だってここにこそ本当のエトルリア的な快活さと自然さがあるからだ。それは強い感銘を押しつけてくるものではないし、また偉大でもない。ただ生き生きと寄せてくる生命の小波、と言った感じなのだが、もしそれで満足されるならば、まさにそれがここにあるのだ。」p.88
http://www.ou.edu/class/ahi4163/files/tomb07.html
(突き当たり壁の死者が宴会を開いている光景)
「これは死の、葬送の宴なのだ,そして同時に、これは死者が、下界で、黄泉の国で開いている宴でもあるのだ。なぜなら、エトルリア人たちが往く黄泉の国で開いている宴でもあるのだ。なぜなら、エトルリア人たちが往く黄泉の国は、楽しいところであったからだ。生者が戸外で楽しい祝宴を開いている時、同時に、死者の墓でも、死者自身が、同じように祝宴を開いていたのである、傍らに貴婦人が侍して彼に花輪を捧げ、奴隷たちは彼に紫の酒を運んでいたのである、はるかなる黄泉のくにで・・・。なぜなら地上の生活が、かくも楽しく良きものであったが故に、下界の生活もそれの楽しい続きとなるより外はなかったからだ。
・・・
すべての立居振舞いの中に、何か舞踏のようなもの、生き生きと心を魅する輝きがある。裸の奴隷の男たちの立居振舞いの中にすらそれはあるのだ。」p.89〜p.90
http://www.ou.edu/class/ahi4163/slides3/t-hunt06.jpg
「豹の墓」p.92
http://www.ou.edu/class/ahi4163/files/tomb10.html
http://www.ou.edu/class/ahi4163/slides3/t-leop10.jpg
http://www.ou.edu/class/ahi4163/slides3/t-leop05.jpg
「饗宴の墓」p.98
http://www.ou.edu/class/ahi4163/files/tomb11.html
http://www.ou.edu/class/ahi4163/slides/208.jpg
http://www.ou.edu/class/ahi4163/slides/210.jpg
「バッカスの巫女の墓」p.104
http://www.mysteriousetruscans.com/art/bacchantes.jpg
「死者の墓」p.105
「雌獅子の墓」p.106
http://www.ou.edu/class/ahi4163/files/tomb04.html
http://www.ou.edu/class/ahi4163/slides/182.jpg
http://www.ou.edu/class/ahi4163/slides/183.jpg
「乙女の墓」p.107
「彩色壺の墓」p.107
「老人の墓」p.109
「記銘の墓」p.111

★p.113〜p.134で、ロレンスが考える、エトルリア人の世界観・宇宙観が爆発的に述べられる。

「まるである力強い別種な生命の流れが、・・・彼等の中を滔々と流れているよう、まるで我々には掬むことを許されていない別の深淵から、彼等は生命の水を掬み上げているかのよう。」p.114
「生命の自然なる開花!」p.114
「エトルリア人にとっては、すべてのものが生きているものだった、全宇宙も生きていた、そして、人間の務めは、その全体の唯中で自分も生きることであった。人間は、様々な生命力が巨大な潮のようにうねり流れているこの世界という海から、生命という水をみずからの内部に掬み入れなければならなかった。全宇宙は生きていた、まるで巨大な一個の生きもののように。その全体が呼吸し、動いていた。
・・・
世界全体が生きものであった、そして、偉大な魂を、即ち霊魂(アニマ)を持っていた。そして偉大な一つの魂であるにもかかわらず、同時にもっとも小さな無数の漂泊して止まることのない魂に分かれているものでもあった。すべての人間が、すべての動物、樹木、湖、山、川がみな生きものであり、それぞれが自分固有の意識を、心を持っていた。そして、今日だってそれに変わりはないのである。 
 宇宙は一つであった、そして、宇宙の霊魂(アニマ)も一つであった。しかし、それは無数の生きものから出来ている一つなのであった。」p.115
「宇宙というものは、ただ一つの魂を持つただ一つの生きものであったが、そう私たちが考える暇もなく、それはたちまち変化して二つのものから成る一つの生きものとなり、内なる魂も、火のような魂と水のような魂と二つになり、二つは小休みなく混じり合い、またたちまちに相離れつつ、究極的には大宇宙の生命力によって一つの均衡調和が保たれているのであった。しかし、この二つは常に烈しい勢いで合体し、また烈しい勢いで分裂し、そして瞬時にして無数の生きものに変ずるのだった、無数の火山に、海に、それから河川に、山々に、森や林に、生きものたちに、そして人間に。だからすべてのものは二元的であった、即ち内に二元性を蔵していた、そして常時小休みなく混じり合い、瞬時にしてまた分裂していたのである。
 宇宙は一つの生きものであるという古代の思想が徐々に形成されて行ったのは、有史時代が始まるよりもはるかに古い昔のことであって、この思想が精緻に集大成されて既に巨大な一つの宗教となった後に有史時代がきて、我々はこの宗教を垣間見ることになるのである。有史時代のまさに夜明けの頃の、支那にも、印度にも、エジプト、バビロニアにも、いや太平洋諸島や原始時代のアメリカにも、既に一つの宗教思想が、それぞれの土台に存在していたという明らかな証拠が見られる。即ち宇宙は一つの生きものであり、宇宙を形成している無数の生命は、烈しく入り混じって混沌なる状態にあるが、しかしこの混沌には、依然としてある秩序が保たれているという宗教思想が・・・そして人間は、この真赤に燃え上がる混沌のただ中に立って、あえて危険をものともせず、力戦苦闘してただ一つのものを、生命を、活力を、さらに多くの活力を求めるのだ、彼方にきらめく大宇宙の生命力を、さらに多く己れの内部に、いやが上にも掬み入れようとするのである。その活力こそ求むべき宝なのだから。この能動的な力に満ちた宗教観によれば、人間は、鋭敏な注意力と繊細な感受性と全力をあげての努力によって、いよいよ多くの生命(いのち)をいやが上にも多くの、きらめく生命力を己れの内部に掬み入れることが出来、かくして遂にはみずからも朝の如く光り、神の如く燦爛として輝くことになるのであった。生命に満ち、完全に己れ自身を成就すると、彼は自分の全身を朱に塗った、曙の赤い初光のような朱に、そして神の体になった、まざまざと目に見える神の、赤々と、全身に生命が満ち輝く神の身体が具現したのである。」p.116〜p.117
「いろいろな墓を見て私たちの目に付くのは、ライオンと鹿とが対比されている図が、次から次に繰り返し出てくることである。この世界が創造されたそもそもの初めから、この世界は二元的な存在形式を取っていたと言うのが古代人の考え方だった。あらゆるものが、二元性を持つものとなった。・・・ 
 豹と鹿、ライオンと牡牛、猫と鳩もしくは鷓鴣(しゃこ)、これらの組み合わせは、この根元的な偉大な二元性、即ち動物の王国にある両極性と切り離せぬ一部をなしている。・・・この組み合わせは、聖なる大宇宙は、動物を創造する場合にも、動物には二つの対極があるような創り方をしたということをあらわしているのである。
 大切な宝の中でも大切な宝は魂であって、それはあらゆる生きもの、あらゆる生きもの、あらゆる木にも池にも内在するもの、そして火的性質と水的性質というこの二元性を形成する二つの部分、二つの要素の間の釣合い、もしくは均衡を知覚するあの神秘的な意識の切点を意味している。この神秘的な切点は、右手から次々に押し寄せる生き生きとした生命にも、それから左手からも次々に押し寄せるくる生命にも包まれるのである。そして個体は死んでも魂は決して消え失せることはなく、あの卵の中に、あるいはあおの壺の中に、あるいはあの木の中にすら保存されていて、そこから再び芽吹き生まれてくるのである。」p.131〜p.132
【この切点である魂とは、不連続的差異の境界のことではないだろうか。後で検討したい。】


「タルクィニアの壁画のある墓(2)」

「牡牛の墓」p.148
http://www.ou.edu/class/ahi4163/files/tomb02.html
この箇所においても、ロレンスのエトルリアの宗教観・世界・宇宙観が述べられている。
「エトルリアの宗教は、けっして神を擬人化し神と人間を同一化する性質のものでなかったことは確かである。即ちこの宗教の中に現れている神々は、すべて存在しているものではなくて、根源的な様々な力(エネルギー)の象徴だった、まさに象徴に外ならなかった。そして、これはさらに昔のエジプトにおいても同じだった。分割されていない究極の神の本質は、もしそういう呼び方で言ってよければであるが、あのマンダム、即ちその中に核を持つ原形質的な細胞によって象徴化された。そしてこれがそもそもの始源、はじまりなのであって、我々の場合のように、究極の神の本質が、擬人化された神、人格神によって象徴されるではなく、また人間がすべての創造もしくは進化の目指す終点、究極の目的ではないのである。これがエトルリアのすべてに一貫して見られる原理だ。エトルリアの宗教は、霊魂の形成のもとでもあり、また霊魂の破壊のもとにもなるあの物質的な、そして創造的なあらゆる力、あらゆるエネルギーに対する信仰なのである。そしてあの霊魂、個性なるものは、混沌の中から、まるで花のように徐々に産み出されてくるもの、そして再び混沌の中に、即ち下界へと消え去って行くものに過ぎないのだ。これとは反対に、私たちは言う、太初(はじめ)に言葉ありき、とーーそして宇宙という大自然が真に実在することを否認するのである。私たちはただこの言葉の中にのみ存在するのであり、この言葉は打ち延ばされ薄く広げられて、すべてのものを覆い、メッキをかけ、すべてのものを隠してしまうのである。
エトルリア人にとって、人間とは、その人間の持つ他と異なる様々な性質や力に応じて、牡牛であり、あるいは牡羊であり、ライオンであり、あるいは鹿でもあるものであった。人間はその血管の中に、翼ある鳥たちの血を持ち、また蛇の毒を持つものであった。すべてのものはそういう血の流れから出現したのであり、従ってこの血縁関係は、それがどんなに複雑で両立出来ない関係になったとしても、けっして断ち切れれることはなく、また忘れられることもなかった。この血の川の中にはいろいろな流れがあって、その中にはいつもぶつかり合っている流れも少なくなかった、鳥と蛇、ライオンと鹿、豹と仔羊というように。しかしそのぶつかり合いそのものが和合調和の一形式に外ならなかった、ライオンが同時に山羊の頭を持っている姿に見るように・・・。」p.153〜p.154


「占い師の墓」p.161
http://www.ou.edu/class/ahi4163/files/tomb03.html
「男爵の墓」p.165
http://www.ou.edu/class/ahi4163/files/tomb08.html
http://www.ou.edu/class/ahi4163/slides/194.jpg
http://www.ou.edu/class/ahi4163/slides/197.jpg
「オルクス、即ち地獄の墓」p.168
http://www.ou.edu/class/ahi4163/files/tomb12.html
http://www.ou.edu/class/ahi4163/files/tomb13.html
「楯の墓」p.171
http://www.ou.edu/class/ahi4163/files/tomb14.html

リンク
http://www.basarchive.org/sample/bswbBrowse.
asp?PubID=BSAO&Volume=1&Issue=1&ArticleID=10
http://www.victorianweb.org/courses/nonfiction
/lawrence/

エトルリア美術 
http://www.mysteriousetruscans.com/art/art.html
http://www.ou.edu/class/ahi4163/files/main.html
http://www.artlex.com/ArtLex/e/etruscan.html
http://www.huntfor.com/arthistory/ancient/etruscan
.htm
http://www.google.co.jp/search?q=etruscan+art&btnG
=Google+%E6%A4%9C%E7%B4%A2&num=30&hl=ja
http://www.insecula.com/us/salle/theme_40013_M0001
.html
http://witcombe.sbc.edu/ARTHrome.html#Etruscan

イタリアの地図
http://www3.zero.ad.jp/cipolla/map.htm
http://rome-navi.net/miritalymap.htm
http://www.geocities.co.jp/Technopolis/9716/italia0.
html
日本語
http://www.jalcityguide.com/world/italy/citymap01.jpg
イタリア(ウィキペディア)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3
%82%BF%E3%83%AA%E3%82%A2
イタリア・リンク
http://www.geocities.co.jp/SilkRoad/5769/links.html

2005年11月06日 (01:19)

自我意識ないし個意識の構造について:根源的意識・原自我

イデア界→メディア界→現象界と展開して、自我が生まれる。これは、一神教(ユダヤ・キリスト教)の発生と関係していると考えられる。これは、イデア・メディア境界において、反動=能動化して、差異を排出・隠蔽するのである。正確に言えば、差異を否定しようとする抑圧・支配欲動・力動がある。例えば、旧約聖書に見られる異教への攻撃性にそれが見られるだろう。また、近代ヨーロッパの攻撃性に見られるだろう。
 しかしながら、ヨーロッパは差異・自由主義を生んだ。これは、自我と関係しているが、自我自体とは異なる。典型的な場合が、デカルトである。コギトの「われ」とは、根源的な「われ」に通じているが、同時に、近代的自我として展開された。スム(我在り)の「われ」が、根源的な「われ」であろう。認識と存在の一致を説くが、根源的な「われ」(根源的意識と呼ぼう)は、不連続的差異論から見ると、イデア界の差異の志向から発していると考えられる。つまり、フッサールの志向性である。これが、根源的意識である。ここで、イデア界を考えると、無数の不連続的差異が存立するのだから、根源的意識は、確かに、差異の志向性ということでは、一(いつ)=「われ」ではあるが、実質的には、無数性・無限性が存していると考えられるのである。これは、「われ」の同一性と複数・多元性を意味しよう。これは、多重人格とは明らかに異なる。多重人格とは、「われ」が多重化するのであるが、根源的意識においては、「われ」はいわば一重、一義的である。この一義性において、多元化するのである。多重人格は、「われ」が多重、多義化するのであり、「一」の同一性が、解体しているのである。(ここで、想起するのは、ポスト構造主義が同一性を批判して、差異を提起したことである。デリダのロゴス中心主義批判、ドゥルーズのプラトンの同一性への批判等。そして、相対主義を提示した。これは、メディア界の領域を正しく提示したことであり、それは、評価に値する。しかし、メディア界的な相対主義は、連続的同一性を解体するが、しかし、それで、根源的意識が解体されるわけではない。(デリダが陥ったアポリアはここに起因しているだろう。同一性を差延等で脱構築するが、同時に、その脱構築自身も同一性によって脱構築されるのである。無限的脱構築性でる。同一性を同一性の言語で脱構築することの無限的矛盾にデリダは陥ったのである。連続的同一性と不連続的同一性を混同しているのである。痕跡やアルシ・エクリチュールであるが、デリダは、初期の「『幾何学の起源』序説」で、超越論的差異を指摘しているのである。つまり、デリダは、イデア界と考えられる超越論的差異を示唆しつつ、それを展開することなく、脱構築の同一性/差異の相補性の循環に陥ったと言えよう。)しかし、根源的意識(根源的差異)をポスト構造主義は、根源的同一性として確認することはなかったのである。単に多元性、複数性の指摘に留まったのである。これでは、責任、倫理、積極的能動性に関して、ニヒリズム的になる。思うに、ポスト構造主義は、現象学への批判を意味をもっていたのだろうが、しかし、フッサールの超越論的主観性を発展的に把捉することができなかったと言えよう。つまり、根源的意識の問題が欠落しているのである。
 さて、本旨にもどると、根源的意識とは、不連続的差異の志向性のことであり、不連続的差異の同一性である。これが、自我の根源である。原自我、特異性的自我、特異性的自己、原自我意識、等である。デカルトの我在りの「われ」は、この原自我に求めるべきであろう。これは、知即存在である。知存在である。理念である。そして、ここから、フッサールの相互主観性が発するのである。そして、これは、現象的には、差異競創主義である。不連続的差異の相互主観性の営為である。フッサールが、現代資本主義の理念を説いていたのは、ある意味で、驚くべきことである。ニーチェを先駆者として、現代哲学は、資本主義の本質に迫っていたのである。マルクスは、近代的資本主義を解明したに過ぎない。
 現代、新世紀時代は、イデア界のルネサンスと言うべきものである。差異から発動している資本主義=差異自由主義が、ようやく、全面的に開花しようとしている。グローバル・ルネサンスである。ポスト・西洋文明である。

p.s. ここで、ウパニシャッド哲学の梵我一如を考えると、アートマンとは、この根源的意識、原自我、原我に当たるだろう。そして、ブラフマンは、イデア界総体であろう。また、「霊魂」の問題であるが、「霊魂」をアートマンと取れば、確かに「霊魂」は不滅である。プラトンは、このことを語っていたのか。また、睡眠時の「知覚」であるが、やはり、「われ」は、イデア界に回帰しているのだろう。ただし、一時的である。しかし、死ぬ時は、絶対的にイデア界に帰還すると言えよう。つまり、メディア界・現象界である「身体」が解体する時である。思うに、原自我、原我の形成したメディア界の強度が消耗するのではないだろうか。強度が解消して、原自我、原我、「霊魂」は、イデア界に戻るのである。そうすると、あの世、彼岸、冥界とは、イデア界である。ある意味で、死者は存しているのではないだろうか。即ち、原自我に回帰した死者である。それは、知をもつのではないか。原自我による現象界の記憶があるのではないか。プラトンの想起説。原自我、原我は、根源的同一性=差異であるが、これは、メディア化され、また、身心化・現象化される。この時(現世)の経験の記憶・記録が原我にあるのではないか。差異連続体の記憶。差異連続性・順列の構成。差異の連続的複合体の構成記憶。思うに、現象自我の構造ないし構成は、原我をベースにした螺旋構造、巻貝のような複合体ではないか。
   
      3.現象自我   
     ・・・・・・・・・・・・ 
      2.メディア自我
     ・・・・・・・・・・・・
      1.原我・イデア自我

1の現象として、2や3がある。しかし、基底・根底・基盤・原基・ベース・根源は1である。1の仮象としての3である。1の変容(変様)としての3である。3の記憶・記録とは何か。1の原我のそれではないか。つまり、3にも、1の原我が機能・作動しているのではないか。すると、3の経験・体験は、1に記憶・記録される。(cf. 阿頼耶識、アカシャ年代記) ならば、1には、無数・多数の記録・記憶の多層性があるだろう。(cf. 『惑星ソラリス』)一者が多者である。思うに、ここでは、矛盾律は成立しない。一者=多者である。一者と多者との絶対差異的自己同一。
後で再検討。

p.p.s. デリダに関する上記を少し訂正したい。デリダは、メディア界的相補性を脱構築主義としたと述べたが、それは、脱構築主義の全てではない。脱構築主義は、相対主義によって、同一性に亀裂やずらしを入れたのであり、その「差異」から「まったき他者」(おそらく、「メシア的なもの」)への遭遇を志向していたのだ。「超越論的差異」とデリダが言ったものは、このことを指しているだろう。この「まったき他者」とは、不連続的差異論から言えば、当然、イデア界である。不連続的差異が他の不連続的差異を志向する共立界である。デリダも不連続的差異論を暗示していたと言えるだろう。おそらく、レヴィナスもそうだと推測する。ところで、高橋哲哉氏の『デリダ 脱構築』講談社は、よく網羅していると思う。もう少し、かみ砕いた説明があるといいと思ったが。つまり、デリダの言葉を、明快に説明していない箇所があり、未消化的な部分があるということである。
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/
406274354X/249-3508088-6643522


デリダ『「幾何学の起源」序説』
http://ningen.hus.osaka-u.ac.jp/kondou/
deridanopage.htm

cf.
http://thought.ne.jp/html/text/medio
/medio221.htm
http://www.google.co.jp/search?q=
%E5%B9%BE%
E4%BD%95%E5%AD%A6%E3%81%AE%E8%B5%B
7%E6%BA%9
0&num=30&hl=ja&lr=&start=0&sa=N

2005年11月05日 (11:33)

理性とは何か:身体的心性と知性との相補性

理性とは、今では、死語であるが、
しかし、何故死語になったのか考えれば、理性は蘇るだろう。
結局、理性を一元的に捉えようとしてきたと言えよう。ヘーゲルにおいては、悟性と感性の統一としての理性だろう。一(いつ)である。カントにおいは、超越論的な知性に関わるものである。西洋の伝統では、ratio、比率である。これから、西洋的合理主義が生まれる。  
 また、常識的には、分別・思慮等、考えられてきた。
ほぼ、知恵に近い。
しかし、やはり、なんらかの知が一元論的に考えられている。
 そこで、私が、思ったのは、相補性という概念である。これは、両極・対極が対立しつつ不可分・一如であるという構造概念である。分かりやすいところでは、陰陽であるし、量子力学の粒子と波動の相補性である。この概念をもちいると、理性が復活するように思うのである。即ち、身体性、身体的心性、身体的意識と言語的知性・認識・意識との相補性としての理性、新理性である。簡単に言えば、身体と知性との相補性である。これは、状況によって、優位性が変わるだろう。現代のような情報社会は、当然、知性優位である。しかし、身体を軽んじていいわけではない。身体を軽んじているために、現代は、狂気・混沌・無能等に陥っているのだろう。身体と知性との相補性としての理性である。両者は対立するのであるが、それを相補的力学によって、両者を錬成するのである。そう、ユングが説いた錬金術、あるいは、東洋身体術も、これを意味したのではないか。身心相補性としての理性である。

p.s. 新理性を、不連続的差異論から見ると、メディア界に関係するだろう。しかし、正しく言えば、これは、イデア界、メディア界、現象界総体に関係することだろう。身体とは、不連続的差異論から見ると何か。これは、実に興味深い問題だ。とまれ、心、意識、認識とは、強度(高強度)から発生するだろう。そして、強度とは、イデア界の境界が根源である。もし、心、魂というのが、差異共存性、人倫性ならば、それは、イデア界に起源がある。そして、私見では、心や魂は身体に存している。つまり、心、魂とは、イデア界が、身体に宿している状態なのだろう。しかし、身体は、メディア界の差異・強度と関係する。連続的差異としての身体である。つまり、心、魂は、イデア界が連続的差異化した状態である。これは、イデア・メディア境界とも言えるだろう。だから、新理性とは、メディア界を介した、イデア界と現象界の相補性だろう。
 とまれ、身体とは、イデア界ないしイデア・メディア境界的連続的差異性と言えるだろう。そして、知性とは、現象界的言語認識である。これは、言語構造、言語的二項対立構造・形式をもつのである。これが、また、近代二元論と通じているのである。フッサール現象学は、これをエポケーして、根源的志向性に達する。超越論的主観性とは、イデア界の差異の志向性のことと考えられる。だから、メルロ=ポンティが、身体に向かったのは、理由があるが、しかし、身体はイデア界とメディア界と現象界をつないでいる。簡単に言えば、メディア界である。だから、身体にこだわると、フッサール現象学から後退する恐れがある。ただし、身体を指摘することは正しい。なぜならば、身体が媒介となって、イデア界につなぐからである。身体が抑制されていると、現象界的認識中心となってします。パラノイア的になってしまうのである。思うに、フッサールの不思議なことは、身体を介しているはずなのに、身体的言及が乏しいことである。生き生きとした現在とは、身体に関係するが。まぁ、天才なのだ。普通の人には拓かれていない、身体・イデア界の通路ができていたのだ。

2005年10月17日 (02:44)

ニーチェとフッサール:イデア界の二つのあり方:絶対的不連続性と差異共存志向性

ニーチェ哲学の強さはその絶対的不連続主義にあるだろう。この点では、頂点にあると言えるのではないだろうか。同情を禁止した強さは、すばらしい。同情とは連続主義の悪しきものである。
 他方、フッサールは、差異の志向性を解明したと言えるだろう。これは、超越論的主観性であるが、実際は、イデア界の差異の志向性と見ていいだろう。つまり、フッサールの主観性は、「存在」論的である。(ドゥルーズはそれを見のがしている。)
 では、ニーチェとフッサール、両者、イデア界を解明していると考えられるが、それは、どういう理論的関係にあるだろうか。つまり、ニーチェが捉えた不連続的差異とフッサールが把捉した不連続的差異とは、どういう風に関連するのかということである。思うに、ニーチェは、差異の境界の絶対性を主張し、フッサールは、差異の境界の志向性を説いたのではないか。つまり、両者で、不連続的差異境界の二重性を説いていると言えるだろう。差異境界の絶対性、そして、差異境界の他者志向性。前者は差異境界の垂直性、後者は差異境界の水平性と呼べるだろう。つまり、差異境界の垂直/水平性という直交性質を両者併せて説いていると言えよう。 
 先に、私は、差異の力学として、そのような直交性を説こうとしたが、うまくいかなかった。差異の力学というよりは、差異境界の力学と捉えると、明快になるのだろう。そして、この境界二重性が、IM境界においても作用するだろう。即ち、絶対的独立性と他者志向性と二重性が作用するだろう。ここで、先にも触れたが、D.H.ロレンスの奇書というべき『無意識の幻想曲』を想起するが、そこで、無意識の4元性が説かれているが、それは、また、身心論(cf. スピノザの心身平行論)でもあるが、最初のコスモス的一体性と独立性は、IM境界の出来事を説いているのように思えるのであり、また、次の現象的二重性は、メディア界と現象界の境界・MP境界の事象を述べているように思えるのである。IM境界と最初の無意識の二重性を重ねるのは問題ないだろう。では、次の二重性とMP境界はどう関係するのか。思うに、連続化しても境界は、内在的に、二重性をもっていると言えるだろう。だから、MP境界においても、内在性が機能して、二重性が生じるのではないだろうか。つまり、連続性における垂直性と水平性があるということではないか。そう考えれば、この問題は説明がつくだろう。

以下は、ボツ
 【では、この境界の垂直/水平力学を、経済に適用するとどういうことになるだろうか。社会主義、近代主義、社会民主主義は、連続性における垂直・水平主義ではなかったか。それに対して、新自由主義は、不連続性における垂直・水平主義ではないか。つまり、 IM境界におけるそれではないだろうか。小さな政府とは連続性の極小化であり、市場原理主義とは、不連続性の垂直・水平主義の極大化ではないか。ただ、問題は、資本、大資本、金融資本というそれ自体連続物のことであろう。不連続性/連続性ないし差異性/同一性という資本の論理から見ると、不連続的差異の創造性が絶対に欠かせないのであるのに対して、出口の連続・同一性の支配が極大化していると言えるだろう。ここに新自由主義の問題点があるのではないだろうか。つまり、富が差異にフィードバックされないのである。差異⇒同一性で止まるのである。これを、差異⇒同一性⇒差異という循環回路にしないといけないだろう。そう、カオスが帰結してしまうだろう。差異というコスモスへと変換させないといけない。資本の質的な不連続的差異化が必要だろう。資本の特異化とも言えよう。マルクスは、プロレタリアートにこのようなものの始点を見たのであろう。そして、ネグりは、マルチチュードにこのようなものを見ているのだろう。やはり、差異の創造性に解決の糸口があるのではないか。資本は、差異的創造へと投資しなければ、衰退するのである。単に、金融商品で設ければいいのではないのである。では、誰が、差異的創造に投資するのか。これが、「マルチチュード」ではないか。いわば、マルチキャピタルではないか。とまれ、差異的共存志向がなくてはならない。差異共存経済である。差異共存共創経済である。これは、どこから生まれるのか。実は、すでに、企業内にあるのではないか。社会にあるのではないか。これをより現実化しないといけないのだろう。差異共存共創原理の経済的実現。つまり、差異共存共創「生産物」があり、それが交換されることが必要である。差異共存共創生産とは? それは、生活者共同組合のようなものではないか。生活者共存共創体。差異市民共存共創体。やはり、共存体の金融システムが必要のように思える。地域通貨のような補完通貨では無力である。そう、思うに、消費者が、差異消費することではないだろうか。あるいは、差異的投資をすることではないか。金融はいじれないだろう。差異創造への消費や投資。それは、教育や学術、福祉医療、農業等への消費・投資ではないか。差異共存共創のための消費・投資。金融資本は、企業へと投資するだろうが、差異共存共創への投資はしないだろう。だから、不連続的差異(複数)が、共存共創のシステムを構築すればいいのではないか。不連続的差異共存共創の自然社会経済システムである。共存共創「銀行」はできないのか。
 どうもまとまらなくなってしまったが、問題は、新自由主義のポジティブな市場原理性と差異共存主義をどのように結合するかだろう。差異自由主義経済とは言えるのだが、具体的には何か。差異共存体という核がなくてはならない。差異市民が、差異共存的差異価値「商品」を自由市場で買えばいいのではないか。
 後で、もっといいアイデアが浮かんだら書こう。これがおそらくいちばんの難問だろう。】

2005年10月10日 (22:05)

論文の骨子

今年の紀要論文(来年発行予定)に関するテーマが先ほど浮かんだ。

タイトル:『死んだ男』の哲学的分析:フッサール現象学と不連続的差異論からの視点


前書き

1.フッサール現象学と不連続的差異論
2.リーダーシップ小説期から晩年期への変容の意味:「力」と「愛」の二項対立を超えて
3.『死んだ男』の画期性:連続性から不連続的差異へ

まとめ

2005年10月10日 (14:25)

ドゥルーズの『襞』からの引用

以下の引用において、ドゥルーズがカオスと呼んでいるものは、不連続的差異論における不連続的差異の共存空間であるイデア界に当たると考えられる。また、「篩」とは、メディア界のこと、あるいは、不連続性から連続性への転換のことを意味するだろう。イデア界とメディア界の境界と言ってもいいだろう。後で、引用を続けたい。ホワイトヘッドとライプニッツとを関係させている箇所で、実に興味意義深い。
 もっとも、やはり、ドゥルーズはイデア界をフッサールのようには、的確に捉えていない。イデア界はカオスというよりは、コスモスである。不連続的差異共存体というコスモスである。カオスというのは、イデア界とメディア界の境界を指すならば、そう言えると思う。しかし、境界は、西田哲学の絶対矛盾的自己同一という術語・概念が十分に表現している。西田の方が、ドゥルーズよりは、明晰であろう。ドゥルーズは、これまで何度も言ってきたように、境界的混同・揺動的思考を行なっていると言えよう。

「・・・出来事は一つのカオスの中に、カオス的な多様体の中に生じるのだが、それにはある種の篩(ふるい)が介入することが条件である。
 カオスは存在しない。それは抽象にすぎないのだ。それはカオスから何か(無ではなくてむしろ何か)を出現させる篩と切り離せないからである。カオスとは純粋な多(Many)であり、純粋な離接的多様さであるが、何かとはあsる一つ(One)であって、あらかじめ一つの単位でなく、むしろ任意の特異性を指示する不定冠詞なのである。いかにして多は一となるのか。ここには形をもたない可塑的な膜のように、電磁場のように、さるいは、ティマイオスの入れ物【コーラのことだろう】のように、大いなる篩が介入し、たとえその何かがカオスとほんの少ししかちがわないにしても、やはりカオスから何かを出現させるのでなければならない。この点でライプニッツは、すでにカオスに近似したいくつかのものを与えることができた。宇宙的な近似にしたがえば、カオスとは可能なものの集合であろう。つまりそれぞれが、それぞれに実在をめざすかぎりにおいて、カオスとはすべての個体的な本質なのである。しかし、篩は共可能的なものしか、共可能的なものの最良の組み合わせしか通過させない。物理的な近似にしたがえば、カオスとは無底の闇であるが、篩はそこから暗い底、フスクム・スブニグルムを抽出するのであり、それは暗黒とほとんど違わなくても、あらゆる色彩を含んでいる。篩とは、〈自然〉を構成する、無限に機械化された機械のようなものだ。心的な観点からすれば、カオスとは普遍的な目眩であり、無限小のもの、無限に小さいものとしての、ありうべきすべての知覚の集合である。しかし篩はそこから、調整された知覚の中に組み込むことのできる微分をとりだす。もしカオスが実在しないとしたら、それは大いなる篩の裏面にすぎないからであり、この篩は、われわれにはカオス的に見えない全体と部分の系列を無限に構成するからである。これがカオス的(任意の系列)に見えるとしたら、それらを追うことができない無能さによってカオス的であるにすぎない。洞窟さえもカオスではなく、一つの系列であって、その要素はやはり、ますます精妙になる物質にみたされる洞窟であり、洞窟の一つ一つは後続する洞窟に広がっていく。」(第6章 一つの出来事とは何か)
『襞ーライプニッツとバロック』ジル・ドゥルーズ著
宇野邦一訳 河出書房新社 pp.133~135

http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/430924209X/249-3508088-6643522

2005年10月03日 (01:02)

『夏の夜の夢』の世界構造、アレゴリーとシンボル他

『夏の夜の夢』の世界構造

小田島雄志訳 白水uブックス(やはり、日本語の達人福田恆存訳の新潮文庫のものが好ましいと思う。)
 
 アテネの町(現象界)

1)シーシュース(アテネ公爵) 
 ヒポリタ(公爵の婚約者、アマゾンの女王) 
 イージーアス(ヘレナの父)

2)恋人たち
 ハーミア==ライサンダー
    \
     \
 ヘレナ⇒⇒ディーミートリアス

3)職人たち
 クインス(大工)、スナッグ(指物師)、ボトム(機屋) 
 フルート(ふいごなおし)、スナウト(鋳掛け屋)
 スターヴリング(仕立屋)

・・・・・↑↑↑↑↑↑↑↑↑・・・・・・・・・・・・・・

 妖精界(メディア界)

オーベロン(妖精の王)==タイテーニア(妖精の女王)
パック(ロビン・グッドフェロー)・・・キューピッドに相当する
豆の花、蜘蛛、蛾の羽根、芥子の種

________________________________
テーマ:
ヴィーナス(&キューピッド)の愛欲からダイアナ(月の女神・処女王エリザベス女王)の貞潔(結婚)へ

________________________________
粗筋:
第1幕:
第1場
シーシュースとヒポリタの結婚が、四日後に迫っている。
イージーアスは、娘ハーミアを、ディミートリアスと結婚させたがっているが、ハーミアと相思相愛のライサンダーは、森へと駆け落ちする。
そのことを、ヘレナは、片思いのディーミートリアスへ伝える。
第2場
職人たちが、公爵の結婚式のために、芝居をすることになり、配役を決める。

第2幕:
第1場:アテネ近郊の森
オーベロンとタイテーニアの仲たがい:自然現象の異変
タイテーニアの可愛い小姓を、オーベロンが欲しがるが、タイテーニアは渡さない。オーベロンはこれへの仕返しを考える。
オーベロン:
おい、おとなしいパック、ここにきてくれ。
おまえも覚えているだろう、いつだったかおれは
岬の出ばなに腰をおろし、人魚がイルカの骨で
歌うのを聞いていた、その美しいなごやかな歌声に
さしもの荒海もおだやかに静まりかえり、
星も海の乙女の音楽に心をひかれ、狂おしく
天から流れおちたものだった。
パック:
 ええ、覚えていますとも。
オーベロン:
そのときおれは見たのだ、おまえは知るまいが、
冷たい月と地球のあいだに、弓を手にした
キューピッドの姿を。その必中の矢が狙うのは、
西方の玉座につかれている美しい処女王であった。
いきおいよく弓弦より放たれたその恋の矢は、
千万の心も一気につらぬき通すかと見えたが、
さすがのキューピッドの火と燃える矢も、
水と呼ぶ月の清らかな光にうち消され、そのまま
独身を誓った女王は立ち去ったのだ、つつましい
乙女の思いに包まれて、痛ましい恋する心も抱かずに。
だがおれはキューピッドの矢が落ちた場所を
目にとめておいた。それは西方の小さな花に落ち、
純白であった花びらも恋の傷にいまは深紅に染まった、
乙女たちはその花を「恋の三色スミレ」と呼んでいる。
それを摘んでこい、いつか教えてやった花だ、
その汁[惚れ薬]をしぼって眠るものの瞼に注いでおくと、
男であろうと女であろうと、目が覚めて
最初に見たものを夢中に恋してしまうのだ。
あの花を摘みとって、すぐにもどってこい、
鯨が一マイルと泳ぎ進まぬうちにだぞ。
パック:
はい、地球を一まわりするのに四十分とかからぬ私です。
オーベロン:
あの花の汁を手に入れたら、
タイテーニアが眠るときをうかがっていて、
その両の瞼にしたたらせてやろう。そうすれば、
目を覚ましていちばん最初にみるものを、それがかりに
ライオンであれ、熊であれ、狼であれ、牛であれ、
いたずら好きの山猿であれ、おせっかいな尾なし猿であれ、
あいつは恋心に駆り立てられ追いまわすだろう。
そのまじないをあいつの目から解いてやる前にーー
それは別の花の汁を使えばできることだがーー
なにがなんでもあの小姓を引き渡させるのだ。
(第二幕第一場)

ディーミートリアスとへレナが現れる。へレナは、ディーミートリアスに夢中であるが、彼はへレナをひどく嫌っている。
それを見たオーベロンは、パックに惚れ薬をディーミートリアスにつけさせ、へレナに夢中になるようにさせる。

第二場:森の別の場所
タイテーニアはお供の妖精たちを連れて来て、眠る。オーベロンは、花の汁(惚れ薬)をタイテーニアの瞼に滴らせる。
ライサンダーとハーミアがやってきて、眠る。
パックは、ディーミートリアスにつけるように言われた花の汁(惚れ薬)を、間違って、ライサンダーにつけてしまう。そして、そこへ、へレナとディーミートリアスがやって来ると、ライサンダーは目を覚まして、そのとき見たへレナに夢中になってしまう。
へレナは侮辱されたと感じる。

第三幕
第一場:森
タイテーニアが眠っている。そこへ、職人たちが芝居の練習に来る。
かれらは、ピラマスとシスビーの劇を演じることにする。機屋のボトムがピラマスを、大工のクインスがシスビーを演じる。パックがいたずらをして(トリックスター)、ボトムにロバの頭をつける。タイテーニアが目を覚まし、ロバの頭をしたボトムに惚れる。「豆の花」、「蜘蛛の糸」、「蛾の羽根」、「芥子の種」が登場して、ボトムをタイテーニアの四阿(あずまや)に案内する。

第二幕:森の別の場所
ディーミートリアスとハーミアがやってくる。
ディーミートリアス:
このぼくの顔は人殺しにやられた顔なのだ、
きみの残酷な目に心臓を刺しつらねかれたのだ。
それなのに人殺しのきみの顔は光り輝いている、
あの空の金星(ヴィーナス)のようにあかるく澄んでいる。
p.74

オーベロンは、パックが間違って花の汁(惚れ薬)をつけたのに気づく。
ライサンダーとへレナがやってくる。
ライサンダーは、へレナに夢中になっている。
ディーミートリアスが目を覚まし、へレナに夢中になる。
へレナとハーミアは仲たがいする。そして、ライサンダーとディーミートリアスもへレナのために喧嘩して、決闘で決着をつけようとする。

(シェイクスピア特有の暴力のテーマ。文化人類学者のルネ・ジラールは、模倣欲望暴力と呼んでいる。そして、また、これもシェイクスピア特有の和解のテーマが存する。暴力から和解のテーマ。争いから平和へのテーマ。思うに、このテーマも、アレゴリー次元、超越論的次元にあるだろう。フッサールの言う間主観性・相互主観性に当たるだろう。
思うに、シェイクスピアは、構造主義者である。アレゴリーは、構造主義だと思う。ヴァルター・ベンヤミンのアレゴリー論であるが、それは、当然、構造主義であるが、さらに、差異論である。そして、不連続的差異論に接近しているが、「星座」論というライプニッツの予定調和論(おそらく、ホワイトヘッドの有機体論にも通じる)という連続論に染まってしまい、不連続性を放棄していると考えられる。思うに、ベンヤミンのアレゴリー論は、メディア界を指しているだろう。「星座」とは、メディア界の擬制である連続性と考えることができる。つまり、ベンヤミンは、プラトンのイデアの不連続性をいったん肯定しながらも、連続的な「星座」論に帰結しているのである。これは、正に、メディア界的である。メディア界の連続性の擬制を真理と取っているのだ。これは連続・連合性の罠である。そう、ところで、社会主義の連帯や連合も、このメディア界の連続・連合性の擬制に陥っているだろう。では、なぜ、連続・連合性が問題かと言うと、これは、一元論的全体主義になるからである。つまり、権力・独裁になるからである。社会主義・共産主義の権力・独裁主義は連続性による必然なのである。
 シェイクスピアにもどると、構造主義者シェイクスピアは、連続論者であろうか。シェイクスピアの和解主義であるが、それは、いわば、差異共存志向である。それは、構造次元における差異共存志向であるから、シェイクスピアは、フッサールに似て、不連続論者だと思う。シェイクスピアも不連続的差異論の先駆である。そう、シェイクスピアのイギリス・ルネサンスの作家であることを想起すべきだろう。ルネサンスとは、差異の発動である。そして、哲学では、デカルトに開花した。スピノザは、デカルトと併せないと、連続論になるだろう。ところで、デカルトとニーチェの関係が実に興味深い。逆説に聞こえるかもしれないが、ニーチェは、合理主義者なのである。ドイツ的鈍重さ・非合理性を憎み、フランスないしラテン的明晰性を愛したのである。思うに、ニーチェの特異性の哲学とは、デカルトのコギトに発しているだろう。だから、ニーチェとフッサールはとても近いのだ。また、思うに、ドゥルーズ哲学の分裂性であるが、それは何だろうか。ある意味で、あまりにも痛ましい。一種の弱さである。ロマン主義である。ドゥルーズが評価したD.H.ロレンスは、最後は、不連続的差異に帰結したのに、ドゥルーズは、連続論に囚われていた。二重人格的とも言える。そう、ガタリとの共作によって、不連続性のイメージが現れたのであり、ドゥルーズ自身は、思うに、連続性と不連続性とに揺れ動いていたと思う。やはり、ベンヤミンのように、メディア界に囚われているのだろう。真にイデア界に達したは、フッサールであろうし、ニーチェもほぼ達していた。(ニーチェは西洋哲学の信長だ。)ロレンスや折口もほとんど達していた。)

この危険に対処するため、オーベロンは、パックに夜の闇を広げさせ、ライサンダーとディーミートリアスを別々にさせ、別の草(ダイアナの花・蕾)の汁をライサンダーの目にしぼりかけさせて、迷いから覚まさせるのである。

第四幕
第一場:前場と同じ、森の別の場所
タイテーニアとロバの頭のボトムが戯れている。
オーベロンは、タイテーニアの不名誉な惚れ込み様に哀れを催し、また、所望していた小姓を手に入れたので、タイテーニアを許そうと決める。

オーベロン:
こうして子供を手に入れたからには、これ(タイテーニア)の目の
忌まわしい迷いを解いてやりたいと思う。
だから、パック、おまえもこのお化け顔を
アテネの下町男[ボトム]の首からはずしてやるがいい。
そしてほかの連中といっしょにこいつも
目を覚ましたら、みんなでアテネにもどり、
今夜の出来事はすべて夢のなかで起こった
荒唐無稽な騒動としか思えないようにしてやれ。
まずおれがタイテーニアのまじないを解いてやろう。
もとのおまえにもどるがいい、
もとの目をとりもどすがいい、
キューピッドの花の魔力より、
ダイアナの花に恵みあり。
さあ、いとしい妃、開くがいい、その目を。
タイテーニア:
まあ、オーベロン! 夢を見ていたのね、変な夢を。
私、恋こがれていたような気がするわ、ロバかなにかに。
オーベロン:
そこに恋人が寝ているぞ。
タイテーニア:
 どうしてこんなことに?
ああ、いまはもう見るのもいやだというのに。
オーベロン:
まあ、待て。パック、その頭をはずしてやれ。
タイテーニア、すまないが音楽を奏でさせてくれ、
そしてこの五人を深い眠りに沈めてくれ。
タイテーニア:
さあ、音楽を! 眠りへいざなうように!

静かな音楽。

パック:
(ロバ頭をはずして)目を覚ましたらもとのばかな目で見るように。
オーベロン:
音楽をもっと高く! さあ、妃、手をとろう、
そして五人が眠る大地を揺り籠のようにゆすろう。
こうしておれたちもめでたく仲なおりだ、
明日の夜はシーシュース公の邸で婚礼だ、
いっしょに出かけて踊ってやるとしよう、
そして子孫の繁栄を祝ってやるとしよう。
この二組の恋人たちも、シーシュースとともに
結婚式をあげさせてやろう、このうえなく盛大に。
pp.106〜109

シーシュース、ヒポリタ等登場

シーシュース:
・ ・・
いとしいヒポリタに猟犬どもの音楽を聴かせたい。
・ ・・
ヒポリタ:
私も昔ヘレクレスとカドマスに連れられて、
クレタ島の森でスパルタの猟犬を解き放ち、
熊狩りをしたことがあります。
・ ・・
 あれほどの
美しい不協和音、心地よい雷鳴ははじめてでした。
pp.110〜111

シーシュースは、森で、ハーミア、へレナ、ライサンダー、ディーミートリアスの四人を見つける。そして、自分の結婚を含めて三組の披露宴を催すことにする。

ボトム:
世にも珍しいものを見たもんだ。おれの見た夢は、そいつがどんな夢かはとうてい人間の知恵じゃ思いもよらん。 ・・・前代未聞の夢だったよ、おれが見たのは。

第二場:省略

第5幕:
第一場:シーシュースの宮殿
ヒポリタ:ほんとに不思議ね、シーシュース、あの恋人たちの話は。
シーシュース:不思議すぎてほんとうとは思えぬ。私には
あのような珍問奇談はとうてい信じることはできぬ。
恋するものと気ちがいはともに頭が煮えたぎり、
ありもしない幻を創り出すのだ、そのために
冷静な理性では思いもよらぬことを考えつく。
狂人、恋人、それに詩人といった連中は、
すべてこれ想像力のかたまりと言っていい。
・ ・・
そして想像力がいまだ人に知られざるものを
思い描くままに、詩人のペンはそれらのものに
たしかな形を与え、ありもせぬ空(くう)なる無に
それぞれの存在の場と名前を授けるのだ。
・ ・・
ヒポリタ:
それにしてもゆうべの話をすっかり聞いて、
みんなの心がそろっておかしくてなったことを知ると、
想像力が生み出す幻とは言えない、それ以上の、
大きな現実の力が働いているように思われるけど。
とにかく驚くべき不思議な話と言うほかないわ。
pp.120〜122

饗宴係のフィロストレートが呼ばれる。そして、職人たちの拙劣な芝居『ピラマスとシスビー』が演じられる。そして、芝居が終わり、一同去る。パック、オーベロン、タイテーニア、妖精たちが現れる。

オーベロン:
妖精たいよ、夜明けまで
踊れ、邸のすみずみまで。
われら二人は新床を
訪い、授けよう、祝福を。
そこで生まれる子供らに
永遠(とわ)のしあわせあるように。
三組の夫婦ともどもに
永遠の愛情あるように。
・・・






2005/10/02のBlog
資本主義とは何か:それは、構造主義的であり、差異構造主義に転換する。

資本主義は、差異から発していると思う。差異とは、超越論的、構造主義的である。そして、必然的に、脱近代的資本主義、不連続的差異的資本主義となるだろう。

p.s.  持論を繰り返すが、イタリア・ルネサンスとは、差異の勃発である。そして、プロテスタンティズムとは、差異への反動である。そして、グローバリゼーション、新自由主義は、差異への反動である。しかし、アメリカの多極主義への転換とは、差異への回帰であり、新たなルネサンスである。不連続的差異のエポックである。不連続的差異的グローバル・ワールド・エポックである。






アレゴリーとシンボル:構造主義と経験主義

アレゴリー:視覚理性形象(アポロ的なもの)の表現:イデア性
シンボル:音楽感情的形象(ディオニュソス的なもの)の表現:身体性

ここから考えると、両面をもった形象、即ち、アレゴリー/シンボル相補的表現が、もっとも優れた表現であると言えるだろう。思うに、D.H.ロレンスの作品、たとえば、『死んだ男』は、そのような表現ではないだろうか。また、ロレンスの「コスモス」とは、イデアであろう。(不連続的差異論から言えば、メディア界であるが。)結局、現代作家というか、現代文学(近代文学ではない。だから、ポスト近代文学と言ってもいいだろう。)は、再び、アレゴリーを発見した、ないし発見しようとしたと言えるだろう。つまり、イデアの再発見である。換言すると、超越論的次元、構造主義的次元の発見である。(セザンヌ、ピカソを初めとする美術革命も、やはり、この次元の発見だと考えられるが、美術界は、このことを真に理解しているだろうか。
http://www.ibiblio.org/wm/paint/auth/cezanne/bath/
http://docentes.uacj.mx/fgomez/museoglobal/carpetas/C/Cezanne.htm
http://www.sts.tu-harburg.de/projects/WEL/0911/images/Weinende%20Frau%20(Picasso).jpg
http://www.georgetown.edu/faculty/irvinem/visualarts/Image-Library/Picasso/picasso.house-garden-1908.jpg
抽象表現主義も、その継承であろう。また、たとえば、ジョージア・オキーフの絵画も、この次元の発見を意味しよう。
http://www.angelfire.com/art/favoritewomenartists/georgia_o_27keefe.htm
http://www.shepherd.edu/englweb/artworks/A14.jpg
カンディンスキーも、シャガールも、そうだろう。
http://www.harley.com/art/abstract-art/kandinsky.html
http://home.comcast.net/~sean.day/html/pseudoartists.htm#aKandinsky
http://www.galerie-obrazy.cz/galerie/chagal1.php
http://www.staratel.com/pictures/shagal/shagal2/main.htm
http://www.guggenheimcollection.org/site/artist_work_lg_75_38.html
シュールレアリスムも、本来、この次元の発見であると考えられる。
http://www.consciencia.org/imagens/banco/Dali/dali1.htm
そう、美術における超越論・構造主義革命である。しかし、美術界は、これを真に理解せずに、行き詰まっているのではないか。これは、他の芸術領域にも当てはまる。文学界は、これを理解しているのか。音楽界もこれを理解しているのか。考えるに、芸術界は、これを理解せずに、いわばこの余韻の中で、混迷迷走堕落衰退しているのだ。さて、ドゥルーズが言った超越論的経験論という言葉が気になる。超越論的経験とは、当然、現象的経験(リアリズム)とは異なる。現象的経験とは、いわば、利己主義、自我主義的経験であり、フッサール的に言えば、自然的態度である。超越論・構造主義革命とは、超越論的経験論(フッサールの超越論的現象学と等しいだろう)を意味するだろう。そして、それが、美術・絵画に明瞭に現れているだろう。そして、この超越論的経験論とは、不連続的差異論によって、今や、不連続的差異的超越論的経験論になったと言えよう。そして、資本主義も今や、そのように変質しているように思えるのである。だから、不連続的差異的超越論的経験論的資本主義である。
p.s. 換言すると、差異資本共存共創主義である。これは、フッサールの間主観性・相互主観性の経済的対応である。)
 つまり、こういうことではないだろうか。近代西欧(近代主義)とは、ロゴスを言語と解釈(誤読)して、アレゴリー・イデア次元を喪失した(この場合、ロゴス=イデアである)。そして、この喪失された次元が、いわゆる現代学術革命として復権したと言えよう。ただし、超越論・構造主義とは、信仰、神秘、非合理性として復権したのではなくて、知・差異として復権したのである。イデア・ロゴスの復権である。超越論的イデア・ロゴスと言えよう。それは、正しく言えば、差異イデア・ロゴスである。あるいは、差異知性・差異理性である。差異叡知である。もっとも正確に言えば、不連続的差異知性・理性・叡知である。






ポスト神秘主義:神秘主義を脱構築する

文学、芸術、宗教、心理学、思想等において、神秘主義ないし神秘思想が頻出するが、これは、不連続的差異論から見ると、実は、超越論的領域の不十分な認識であると考えられる。現実を超えたような万物との一体感の「感じ」、「感情」が生じる。しかし、これは、不連続的差異論から見ると、メディア界(超越論的領域)から発生していると考えることができるのである。
 さらに言えば、宗教もメディア界から発生していると見ることができる。だから、理論・知的に、メディア界を肯定するならば、必然的に、脱神秘主義、脱宗教となるだろう。仏教は、もともと、宗教批判から発した脱宗教である。空とは、メディア界のことである。
 また、さらに、オカルティズムも、同様である。たとえば、占星術であるが、それは、メディア界における差異の連続的連結から発生する擬制である。ほんとうは、メディア界の差異の「複雑系」を問題にしないといけないのであるが、それが、連続表象化されて、星座、惑星等々になっていると考えられる。メディア界の解明が、万物・万有・森羅万象の解明となるであろう。
プロフィール

sophio・scorpio

  • Author:sophio・scorpio
  • 2004年(平成16年)9月23日、ブログ上で、ODAウォッチャーズ氏(ブログ『海舌』)と遭遇して、新しい理論、不連続的差異論が誕生しました。まったく思いもよらぬ出来事でしたが、この結果、独創的な理論が生まれたと自負しています。とても簡潔な理論ですが、文系、理系の分化を乗り越えた統一的理論で、多くの分野・領域に適用可能だと考えられます。
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